2014年4月6日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【19】『独身者の住まい』


―〈独身者の住まい〉、これは時代の必然である。すなわち、歴史が変わる。(p. 46

自己充足的consummatoryな書き手による本である。竹山聖『独身者の住まい』(2002年、廣済堂出版)だ。だが、自己充足的、言い換えればナルシスティック的だからこそ、著者は「独身者」というテーマに興味を抱いたのだろう。

それは京大を出て、大学院は東大に進んだエリート著者の「あとがき」にも表れている。

「孤独であること、これが人間を強くするのだ、といまでも思っています。だから〈独身者の住まい〉という言葉にはひっかからざるをえない。京都時代の孤独、そして東京に移ってからの孤独。質は違いますが、その孤独が響き合って、人格が形成されている。そんなふうに自覚しています。[中略]〈独身者の住まい〉はそんなぼくの『青春』の消えうせた時間の延長を想像する試みでもありました。」(pp. 280-281

本書にも登場する上野千鶴子が以前、「ぼく」という主語には甘え、未成熟を感じる、と言っていたが、それは竹山にも当てはまる。ナルシストは他者を指向しない、自己指向な人間だからである。

しかしだからと言って内容が優れていないわけではない。むしろ本書は、砂の中で石英がキラリと光るようなエッセイ群で構成されている。たとえば前書き「夢の空間―まえがきにかえて」では〈独身者〉という変数をもって次のように世界を切る。

「世界は独身者に向かって進んでいます。豊かな世界ほど、ひとりの気ままさを許している。自由な時間をもたらしている。個人が共同体のしがらみから解放されています。自由な個体が自由に運動する、その中に新しい秩序、ヴォランタリーなネットワークが探られねばなりません。」(p. 10

そしてこうも言う。

「ひとりであるときが充実すれば、家族を持ったときだって、持たなかったときだって、失ったときだって、家族を持っているとしたって、自分自身でいられるし、他者を思いやることもできるはずです。長い目で見れば、誰もが人生のかなりの時間をひとりで暮らす。そんな時代が来ているのかもしれません。この時間の器を豊かにすることが、つまるところ人生を豊かにすることなのではないでしょうか。生きているというのはいつもプロセスで、完成したエンド(目的)など決して訪れない。このプロセスを大切にすること。)」(p. 8

ここで竹山は、従来、孤独で悲しい存在とされてきた〈独身者〉の概念を転回し、そこに新たな可能性をみようとする。しかし同時に、竹山は決して〈他者〉を否定しない。

「『独身者』のみで社会が構成されるべきだなどといっているわけでも毛頭ない。」(p. 299
「むしろ都市に住む場合、都市の利便、情報、刺激、快楽はさまざまな他者の訪れによってもたらされる。」(p. 10
「しかし逆説的に、他者がいるがゆえの孤独が大都会を覆っている。選択肢が増えて、自由の領分が増えたゆえの孤独である。そしてわれわれは自由と引き換えに心の闇に向き合わなければならなくなった。」(p. 73

この〈独身者〉と〈他者〉との関係は「距離」というエッセイの次のような文章にも表れる。

「ひとりひとりが自立していることが、人類の社会関係の未来像だからです。距離があることによって、人間関係は安定します。外敵から身を守り、内部では争いを回避しながら親密な関係を保ちます。直接的な接触より、間接的な接触のほうが、洗練されたマナーを感じさせますし、文化を生み出しますし、危険が少ないですし、何より頭を使います。つまりこれまでの人類の進化の方向性に一致する。」(p. 29

〈独身者〉は「負け犬」ではない、むしろ「勝ち犬」である―本書からはそんな声が聞こえてくる。「おひとりさま」への福音書だ。

2014年1月19日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【18】『国家とは何か』

久々に重厚な本を読んだ。物理的に、ではなく内容が厚い、という意味においてである。萱野稔人・著『国家とはなにか』(2005年、以文社)である。

この本はわれわれの常識を転覆させる転覆的な本である。たとえば本書の通奏低音となっているテーマは「暴力が国家を規定する」。通常、われわれは文化や国境、人が国家を規定すると考えがちだが、萱野はまずその否定から本書を書き進めていく。

クィア理論家のジュディス・バトラーは「ジェンダーがセックスを規定する」と喝破し物議を醸したが、同様に「暴力が国家を規定する」という公理もウルトラC級の転覆技である。

国家が成立する際、暴力は組織化される。そこで暴力と権力のあいだには相乗的な関係が生まれる。そして国家は、一方で暴力を通じて権力を実践し、他方で権力を通じて暴力を実践する、という複合体となる(p. 74)。だから「国家は税を徴収するから暴力的である」のではなく、「国家は暴力的であるから民から税を徴収する」のである。

税の徴収は富の我有化と結びつく。萱野は言う、「国家を思考するためには[中略]富の我有化を可能にする暴力の社会的機能を問うべきなのだ」(p. 98)と。そしてドゥルーズ=ガタリに依拠しながら、マルクス流の「富の蓄積が国家を生んだ」という言説を転覆させ、「国家(という暴力組織)が富を蓄積する」と述べる。「国家の基礎は、富の我有化と暴力の蓄積との循環的な運動のなかにこそ見いだされなくてはならない」(p. 98)とする。

「暴力」と「権力」との区別を措定する際、萱野はフーコー流の暴力の定義に依拠する。機能的な定義だからである。「暴力」を考察の対象として取り上げるべきだ、と主張したアーレントについて萱野は「全面的に同意する。この指摘は、本書全体におけるわれわれの考察のモチーフをあらわしているといっても過言ではない」(p. 67)とまで言うが、アーレント流の「暴力」と「権力」の差異化については主観的・規範的・現象学的であるとして棄却する。

従来の国民国家論に物足りなかったのは、天下国家=公的領域のオハナシに終始し、私的領域に踏み込むものが少なかったからだ。しかし萱野は私的領域、つまり家族の領域にまでも踏み込んでこう言う。「国民国家においては、国家を家族になぞらえる家族国家観がしばしば提示される。それはまさに、国家が生存のための経済的な単位のひとつを政治化し、横領した姿にほかならない」(p. 209)。家族国家観は「国家が住民たちをみずからのもとに動員するためのひとつの枠組み」(p. 209)なのである。

また萱野は国家と資本主義との関係性も考察する。メディアで喧しくグローバリゼーションが取り上げられるようになった今、その関係性は誰もが気になるところだろう。デゥルーズ=ガタリは「資本主義は脱コード化された一般公理系」だと言明したが、資本主義は国家を廃絶しない、つまり資本主義が発達した結果、国家の壁が低くなり、最終的に国家がなくなると考えることはできない、と萱野は述べる。私的に換言すればグローバル資本主義によって国家は衰退しないのだ。そしてドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に依拠しながら、(1)資本主義が発達した場合、国家は自己の形態を変えて富を我有化する方法を変えるのみ(2)公理系としての資本主義は現実モデルの存在が必要(3)資本主義は自ら成長するためにも国家への依存が必要 と説明する(pp. 271-273)。

またわれわれが誤解しがちな「国民国家=ナショナリズム」の図式も萱野はうまく否定してみせる。萱野はアールネスト・ゲルナーの定義に拠りつつ、まずナショナリズムをこう定義し直す。「ナショナリズムとは、暴力の集団的な実践を民族的な原理にもとづかせようとする政治的主張である」(p. 194)。そして国民国家の構築にはナショナリズムが不可欠だといいながら、ナショナリズムは国民国家のレベル(ナショナルなレベル)よりも下位のローカルなレベルでも上位のトランスナショナルなレベルでも機能しており、さらには国民国家批判の際にさえ呼び出されることもあり、決して「国民国家=ナショナリズム」ではない。

したがってナショナリズムを分析するのであれば国民的なアイデンティティを組み立てる同一化のメカニズムに関わる分析でなければならないし、加えてそのようなアイデンティティは特定の人々にとっては必要なものでもあるから、ナショナリズムに対抗するためにはそのナショナリズムの「想像的な」(ベネディクト・アンダーソン)コンテンツを書き換えることになる(p. 197)。

萱野氏は最近、教職の傍らでニュース番組のコメンテータなど、メディアで活躍されている。メディアに入り込むことでその内側から様々な「暴力」の解体を目論んでいるのでは、と睨んでいる。しかし氏は本書のような論を展開できる力量を持っており、「余技」に走らずにさらに萱野流・国民国家論を進めてもらいたい、と思うのは欲張りなことだろうか。