2013年7月28日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【16】『身の下相談にお答えします』

とうとう身の上相談の回答者まで始めた上野千鶴子。彼女の「尻軽さ」には呆れるほどだ。しかも朝日新聞の読者から彼女に寄せられる相談内容はなぜか下半身に関するものばかり。そんな中から上野の回答をまとめた本書『身の下相談にお答えします』(朝日文庫、2013年)が誕生した。

タイトルの「身の下」と聞いて「スカ下」を思い浮かべるアナタは上野ファン。本の帯には「『スカ下』から『身の下』へ」と書いてあるが言い得て妙。そう、上野の初期の作品の1つが約50万部を売り上げた『スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(略して『スカ下』)であり、本書のタイトルは「スカ下」と「身の上相談」を組み合わせて誕生した。

上野は「あとがき 人生のお悩みの多くは身の下から来ます」で、回答に際して「たとえお役に立たなくても、少なくとも相談者を傷つけるようなことだけはしないでおこうと、わたしは決めました」(p. 275)と書く。実際、上野は相談者をギリギリ傷つけないラインを保ちつつ、相談者の相談に介入していく。「他人の人生をのぞき見するのって、ほんとにおもしろい。それに介入するのはもっとおもしろい。本来なら大きなお世話なのに、ご本人が介入を求めておられるのだから堂々とお答えできます。」(「あとがき」p. 277)。

では早速上野の絶妙な回答をみてみよう。「病床の父をののしる私」という50代の看護師からの相談にはこうある。乳がんになった際にお見舞いもねぎらいの言葉もなかった「実父に対し、これほどまで憎む自分を情けなく思い、父の死期が迫ったときに何と声をかけたらいいかと考えると涙がとまりません。育ててくれた父親に対して、感謝以上に憎しみが充満している私に、どうか解決策をお願いします」(p. 149)。これに対して上野は社会学者らしい極めて現実的なアドバイスをする。「親子関係は圧倒的に非対称なものです。親は自分が子どもにしたことはほとんど覚えていません。親に謝罪や感謝を求めてもムダ。愛も憎しみも、自分の心の中の帳尻合わせです。そして感情の帳尻というものは、合わないもの、と思ってください。帳尻の合わない自分の感情を否定せずに、それと向き合ってください。そして同じような思いを自分の子どもには味わわせないようにつとめてください」(p. 151)。なるほど。そして親から生まれてこない子はいない。この回答は、程度の差はあれ、誰にとっても身につまされるものだろう。

また「『婚活』をなじられます」という相談が52歳の女性から寄せられた。この女性は再婚を目指して婚活をしているが、それを親に反対されて悩んでいる。

この相談に対して上野は幸福論的、人生論的回答をする。「親の幸福より自分の幸福が大事。そう。自分のエゴイズムと向きあい、それを肯定するのが生きる覚悟というものです。でないとあなたは、これから始まるかもしれない介護生活のなかで、あのとき自分の幸福の邪魔をしたと、親をうらみ続けることになりますよ」(p. 172)。親の束縛から逃れらない人は、この文章を読んでギクッとしたはずだ。

「娘についひどい言葉を……」という相談を寄せた40代の主婦は次のようなひどい言葉を娘に言ってしまった、という悩みを上野に打ち明ける。「父さんと母さんは結婚したときから仲が悪くて、離婚しようとしたら、あなたを妊娠していた。だから離婚できず、今でも父さんに奴隷のように扱われ、不幸だ、あんたが生まれなければよかった、あんたが大嫌いだ」(p. 186)。しかし謝ったにもかかわらず娘から口をきいてもらえないこの母親は「これから先、どうしたらいいでしょうか。私はもう娘に謝る気はありません」(p. 186)と相談する。

それに対する上野の回答は極めて自己言及的になる。おそらく似たような経験があったのだろう。回答をみてみよう。「哀しいですねえ、女の人生は。……いつまでこんな哀しい相談を受けなければならないのでしょうか。……わたしは娘さんがかわいそうでなりません。それでなくても子どもは母親の不幸を見て、その不幸の責任が自分にあるのではないか、と思ってしまうけなげな生きものです。」(pp. 187-188)。

そして相談者の精神分析をし、こう喝破する。「こんな相談をくださるのは、あなたが娘さんに言い過ぎたと後悔しておられるからこそ。何度でも娘さんに謝ってあげてください」(p. 188)。そして最後に自己言及的なコメントで回答を締める。「ところでこれから先も、夫との不幸な生活を死ぬまで続けるおつもりですか。不幸な母親は子どもを不幸にします。どんなやり方であれ、まずあなたご自身が、不幸であることをやめること。そしてこれこそが、わたしの母が生きているあいだに、わたし自身が彼女に伝えたかったことです」(p. 189)。泣けるではありませんか。「あの」頭脳明晰な上野でさえ、母娘の物語をめぐる難問を現実世界で解くことができなかったのだ。

上野の歯切れのよい回答はとどまるところを知らない。「自信喪失した娘が心配です」と言う50代の主婦は、アルバイト生活を続けながら正社員の職へ応募を続ける、良縁にも恵まれない娘を嘆く。娘に金銭的な支援も続けるこの母親に対し上野は一刀両断。「自分の道を探すのは娘さん自身の課題です。親業のゴールは子どもからある日、『もうあなたは要らない』と言ってもらうこと。あなたはそのゴールをめざさなかったのですね。老後の安心のためにも子どもの自立がカギです」(p. 204)。

また、「自殺は本当にいけないですか」という無職の50代の男性から相談を受けた際には次のようにバッサリ。「そもそも本気で死ぬつもりのひとは、お悩み相談なんてしません。『死にたい』メッセージは、その実『死にたくない』メッセージ。自殺者がたび重なる自殺予告をすることは知られていますが、それはそのメッセージを受け止めてほしいというアピールです」(pp. 239-240)。ぐうの音も出ない。

そして極め付けは、朝日新聞に掲載された結果、最も論議を呼んだ「性欲が強すぎて困ります」という15歳の中学生男子からの相談に対する回答だった。下記がその上野の回答。Are you ready?

「経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください。断られてもめげないこと。わたしの友人はこれで10回に1回はOKだったと言っています。昔は若者組の青年たちの筆おろし(って知ってますよね)を担ってくれる年上の女性たちがいたものでした。わたしだってもっと若ければ……ただし相手のいやがることは決してしないこと。ご指導に従って十分な経験を積んだら、ほんとうに好きな女の子に、お願いしましょうね。コンドームの準備は忘れずに。」(pp. 42-43)

「わたしだってもっと若ければ……」(笑)。ウエノチヅコにしかできない回答だ。

いずれにしても、上野は回答者の複雑な心理状態をほぐして、次々と処方箋を出していく(ちなみに上野の亡き父も兄弟も医者である)。その様子はまさに「快刀乱麻を断つ」だ。他の媒体で彼女は「若い頃は時間を持て余しており、反吐が出るほどマージャンとセックスをやっていた」と明け透けに語っていたが、そんな経験がこの人物を身の下相談の唯一無二の回答者として育て上げたのである。

2013年7月12日金曜日

現役通訳者が書評をしたら【15】『<おんな>の思想 私たちは、あなたを忘れない』


友人がニューヨークに遊びに来るというので、頼んで買ってきてもらったのが上野千鶴子『<おんな>という思想』だった。

同書は2部構成からなる。第1部に5人の日本女性による著書(森崎和江、石牟礼道子、田中美 津、富岡多惠子、水田宗子)、第2部に6人の非日本人による著書(フーコー、サイード、セジウィック、スコット、スピヴァク、バトラー)が紹介されており、盛り沢山な内容だ。前半の日本語文献は「<おんなの本>を読みなおす」『集英社インターナショナルWEBブログ』から、後半の翻訳文献は「ジェンダー で世界を読み解く」『すばる』からの転載である。最後の「境界を攪乱する ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』フェミニ ズムとアイデンティティの攪乱」のみが書き下ろしになっている。

上野は同書を執筆するに至った動機をこう記す。「本書はわたしが読んできた本、そして力を得た本、それから私の血となり肉となった本を選び抜いて論じたものである。」(p. 296)。そして第1部の扉ではこう書く。

「彼女たちのことばは肺腑に沁みた。そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない。わ たしの魂をゆさぶることばをわたしに送ったのが、おんなの書き手ばかりであったのは、たんなる偶然だろうか。そしてそういう女性たちと同時代を生きて、彼女たちのことばをたしかに聴きとったことを、次の世代のおんなたちに伝えたい。」

しかし、「そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない」と言ったものの(<おとこ>としては寂しい限りだ)、第2部では2人の男性思想家が入っている。<おんな>の思想、にも関わらずである。これについて上野は第2部の扉でこう説明する。

「『<おんな>の思想』と銘打ちながら、そのなかにふたりの男性思想家が含まれていることを奇異に感じる読者もいるかもしれない。 だが、「おんなの思想」とは「おんな/おとこ」をつくりだす思想のこと、と言いかえてもよい。いや、もっと正確にいえば、「おんな/おとこ」をつくりだすしかけを暴き出す思想、と。それならフーコーの貢献は忘れるわけにいかないし、ポストコロニアリズムにおけるサイードを無視することはできない。」

上野の「<おんな>の思想」にこの2人の男性思想家が入るのは必然だった。

ところで上野は、同書について次のようにメタ批評している。「自分でいうのもなんですが、力の入った本になりました。」(http://wan.or.jp /ueno/?p=3183)「自分でいうのもなんだが、力のこもった書物になった、と思う」(p. 301)。しかし、 そこはやはり生身の人間、力が入っているものもあれば、そうでないものもある。というよりは読みが深いものもあれば、浅いものもある、と言った方が正確だ ろう。前者の例としては富岡多恵子、水田宗子、スコット、後者の例としてはフーコー、サイード、セジウィックが挙げられる。

特に水田の『物語と反物語の風景 文学と女性の想像力』論には力が入っている。水田の書自体に力が入っているからかも知れない。この本は、その一部が『新編 日本のフェミニズム』12巻のうち『フェ ミニズム文学批評』にも収められるに至った、明快な語り口の論理的な書籍だ。教壇に立っていた東大で上野がゼミでこれを取り上げた際、『物語』は辛口評論家の豊崎由美に「この論文を読めただけでも『フェミニズム文学批評』を読んだ価値があった。」と言わしめた、というエピソードを上野は紹介しているが、それほど水田の面目躍如たる著書である。それを上野は、若いころの水田と交した対話を文脈に挿し込みながら評論を進める。雑誌「ダ・ヴィンチ」誌上で、自身に影響 を与えた本としても上野がこの水田の本を挙げていたと記憶している。

一 方、石牟礼論についてはYes and Noだ。環境文学を生業としている者として、石牟礼についての卓抜な分析、論文は山のように読んできた。その水準から上野の石牟礼論を読むと物足りなく感じる。しかし既読の論文は、あたかも恣意的かのように石牟礼文学をジェンダーの視点で分析することを怠ってきた。上野は今回、石牟礼文学を自家薬籠中の物としたジェンダーという変数で読み解いており、この意味で評価できる。

上野はこうも書く。

「詩より小説は、そして評論は、迂遠な自己表現の方法だ。」(p. 110
「批評は迂遠な自己表現の回路である。」(p. 127
「本書は、わたしが選び抜き、今では古典となった書物を、ほかでもないこのわたしがどんなふうに読んできたか、の記録でもある。それはわたしがいかにつくられたか、ということの証言でもある」(p. 296

同書はもちろん<おんな>という、もっと正確に言えば<おんな>というカテゴリーをめぐる思想に大きな影響を与えた先哲が取り上げられているのだけれど、その読みは上野の読みであり、上野の評論、批評である。だから本書を読めば<上野千鶴子>の頭の中をちょっと覗いたような気になる。あなたが窃視症的な上野ファンなら、本書を読んでいる間、オルガスム(もちろん比喩だ)は止まないだろう。

この意味で、本書の表題は『<おんな>という思想』ではなく、『<上野千鶴子>という思想』であるべきだったのだ。

2013年7月8日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【14】『秘密』

弟が東野圭吾にはまっているのを数年前に実家で横目で見ていた。それ以降、気になっていたこの人気の小説家。今回、彼の『秘密』をガレージ・セール(アメリカの象徴だ)でたまたま手にし、読み始めたらページを繰る手は只々止まらなかった。
120回直木三十五賞候補、第20回吉川英治文学新人賞候補となっており、第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しているこの作品は、限りなくリアルな空想小説である。
物語は妻と娘がスキー旅行に 出掛けた場面から始まる。乗っていたバスが崖から転落し、娘・藻奈美だけが奇跡的に助かる、しかしその娘の体に宿っていたのは死んだはずの妻・直子だった。 主人公で直子の夫・平介はその秘密を隠し通しながら、藻奈美であり直子である存在と奇妙な生活を始める。平介は相変わらずのサラリーマン生活を続けるが、 直子は藻奈美として「生まれ変わった」機会を利用し、何の特色もなく過ごしていた直子時代を反省、中学受験、高校受験を経て、果ては医学部を目指す。

し かしこの小説は、「生まれ変わった」機会を手にした人物が成長していく、というビルドゥングスロマン(教養小説)の変種として読み解くのは正しくない。正 しいのは「性」という変数をもって読む読み方である。「性」をめぐって展開するミステリー、そして「性」自体がミステリー、という二重の意味でこの本は 「性のミステリー」なのである。詳述しよう。

物 語は「性」を軸に展開する。直子の肉体を失ってしまった平介は藻奈美の担任に惚れ、写真を撮ってそれをオカズに自慰行為をする。しかしそれ以上に手出しは しない。北海道出張中にソープランドを試すことはあったが、これもうまくいかなかい(=いけない)。東野は平介にこう言わせる。「勃起すらしない。つまり 男であって男ではない。」(p. 261)。「勃起が男であることの証明である」というこの命題=クリシェ(陳腐な言葉)には辟易するが、それは直子に対する愛情の裏返しでもある。
一方、藻奈美としての直子は 高校で平介が関与しない独自の世界をつくり始め、テニス部に入部、先輩に淡い恋心を抱き、平介はそれに嫉妬しストーカーと化す。しかし直子の言い知れない 苦しみ、つまり平介以外には打ち明けられない「秘密」(本書のタイトルだ)を守り続けなければならない直子の苦しみを平介は次第に理解し、態度を改め始め ると、直子という心が現れる時間は徐々に減り、代わりに姿を消していた藻奈美の心が交代で現れ始める。二重人格の状態だ。直子と藻奈美はお互いが存在して いることを認知しているという意味で交代性の二重人格(エレンベルガー『無意識の発見』) である。そして藻奈美が顔を出している際に困らないよう、直子は藻奈美宛に自分が過去にそしてその日に経験したことを手紙に認め始めるが、ここでドストエ フスキーの『分身』や謡曲の『井筒』、さらには狐憑きを思い出さない訳にはいかない(小林敏明『精神病理からみる現代思想』)。
しかし解説で推理小説家の皆川博子が書くように「二人(註:平介と直子)とも、ストイックなまでに互いに誠実」(p. 451)な関係を続ける。そして皆川はこう問いを投げかける。「夫は、娘の肉体を持った妻を抱けるか。」(p. 451)。答えはノー。平介と直子は何度か性交渉を試みるが、直子が自分の娘の姿をしているだけにうまくいかない(=いけない)。文化人類学者たちが見つけ出した近親相姦のコードはここまで強いのだ。そしてセクシュアリティは身体的なものではなく両耳の間(=脳)で発生する。

「恋愛相手の選択は見かけではない、中身である」という人がいる。このデカルト由来の心身二元論に基づいた言説は本当なのだろうか。もし本当だったら平介は直子の心を持った藻奈美に萌えられたのではないか。体は藻奈美で心は直子であるこの少女は藻奈美なのか直子なのか。平介は「目に見えるものだけが悲しみではない」(p. 409)と別の文脈で述べるが、実際には目に見えるものが意識を支配してしまうのか。数十万部を突破した『人は見た目が9割』(竹内一郎)はフロックではなかったのか。巷で言う「心がつながった」性行為というのは嘘で、「体だけの関係」でしかないのか。「性」とは、そして「心」「体」とは?

読者は読後にこの解けない問いとともに放り出される。そして親密圏の他者(=恋愛相手)を見るたびに、その体には別な誰かが宿っているのかも知れない、と空想するようになる。この意味で、本書は「限りなくリアルに近い空想小説」なのだ。