2013年4月14日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【6】『もてない男―恋愛論を超えて』

最近、寝る前に読んでいた『もてない男―恋愛論を超えて』(小谷野敦、ちくま新書)。ボクがもてないから?そう、と言っておこう。それを認めないほどプライドは高くなく、また問題があるから知的好奇心も動かされる、といったところ。

ちなみに同時期に『もたない男』 (中崎タツヤ、飛鳥新社)も読んが、1字違っても内容は全く異なる。こちらはなるべく持ちモノを極限まで減らしたいちょっと神経症的neuroticな漫画家の話。

脇道にそれたが、『もてない男』で印象に残ったのは、恋愛論の部分ではなかった:

「孤独」をちゃんと書ける作家がじつに少ない。文学史的に言えば、「孤独」を主題にした最初の名作はルソーの『孤独な散歩者の夢想』だろうし、それに続くのがドストエフスキーの『地下室の手記』だろう。(p. 121)

上記に引用した部分が引っかかったのは、おそらく同書を読んでいた時期のある晩、敬愛する友人と長電話をしていて「皇居のように寂しい人間だ」と言われたからだろう。

「皇居のように」と聞いてロラン・バルトの『表徴の帝国』を思い出した方、正解である。バルトは日本に数カ月滞在し、その後独自の日本論を同書に展開した。彼は、日本には、西洋との異なり、シニフィアン(意味)を持たないシニフィエ(記号)が存在する、と喝破した。1つの例が皇居であり、東京という意味の過剰な大都市の中心に森しかない空虚な皇居という空間=記号が存在している。そう、皇居は空虚な記号なのだ。 

蛇足で言うまでもないが、書評という行為は「客観的」なものでは決してなく、書評者自体を丸裸にする極めて「主観的」な行為であるが、それは上を読んでもらってもわかるだろう。

孤独と言ってマルケスの『百年の孤独』を思い出すあなたは正統派。私はなぜか元ポーランド文学者で詩人伊藤比呂美の元夫でもある西成彦の「1500年の孤独」という示唆的な短文を思い出す:

「1500年の孤独」
「日本書記」によると、丹後の国の浦島子が消えた年は西暦に直すと四七七年、竜宮から戻った年は八二五年、要するに大陸から異文化が怒濤のように押し 寄せてきた三五〇年近くのあいだ、浦島は郷里を離れていたことになる。この古い伝説が、現代にも通用する新鮮さを秘めているとすれば、それはこの物語が ユートピア願望を語ると同時に、カルチャーショックがもたらすトラウマの大きさにも重さをおいた話だからだ。西洋にも「オデュッセイア」という不の古典が あるが、その主人公が英雄の典型であるのに対して、浦島は時代の波におしつぶされて無残な死を遂げる悲業のアンチヒーローである。さまよえる現代人は、英雄物語の主人公たる可能性を秘めながら(桃太郎がこの典型だ)、もう一方では不気味な死のパフォーマンスを演じてみせる旅芸人でもある。浦島太郎の孤独 を、千五百年後の私たちも追体験できる。文学の醍醐味のひとつだ。
(http://research-db.ritsumei.ac.jp/Profiles/38/0003731/profile.html)

桃太郎と孤独--何という組み合わせだろう。ウルトラC級だが、そこを結び付けられる西は慧眼を持つ。また現代人は英雄であり旅芸人でもありうる両義性をもった存在である、というのも異議なし。

小谷野の本に戻ると、彼の引用に登場する孤独を文学し哲学した男ヘンリー・デイビッド・ソロー。彼を研究している友人も言っていたけれど、もっと「孤独」という概念は研究されるべきだと思う。桃太郎が苦しんだであろう、そしてソローが早くから気づいていた孤独という問題、これを語る孤独論の時代がようやく来たのだ。このグローバルな孤独の時代に。

現役通訳者が書評をしたら【5】『リキッド・モダニティ 液状化する社会』



友人がバウマン研究をしていることもあり、『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(ジークムント・バウマン、大月書店)を読んだ。

堅牢なものの時代は抑圧的ではあったが安定していた、と述べるバウマンは、単に過去を否定して未来を理想化する人たちとは違って、よりバランスのとれた目線をもっているように思える。

キャンプ場の例が面白い。現代社会では、訪れたキャンプ場でサービスが悪くても次から行かなくなるだけで、キャンプ場管理者たちの哲学までは問わない、これが固形状のものがない常に流動的な液状化された社会である。

そういった近代論と同時に、本書はアイデンティティ論でもある。バウマンはこう言う。「アイデンティティが固定、確立してみえるのは、それに外側から一瞬眼を向けたときだけだろう。伝記的経験の内面から眺めれば、アイデンティティは脆弱で、傷つきやすく、流動性を暴露する力、形あるものすべてを押し流す破壊的逆流によって、ボロボロにされているようにみえるはずだ(p. 108)。僕も博士論文で「アイデンティティは今ここで立ち現れるもの」と定義したが、これはバウマンの定義と重なる。そして「形あるものすべてを押し流す破壊的逆流」。僕たちはこの逆流によってボロボロになってしまっていることに気づいているのだろうか。

またバウマンは「現実のアイデンティティは空想、夢想という接着剤でのりづけされ、なんとかかたちを保っている」(p. 108)とも言う。言い換えれば、人間が生きている上で欠かせないアイデンティティは空想、夢想によって成立しており、それがなくなってしまえばきっと人は精神的病を抱えるのだろう。

もう1つ面白かった言明はこれ。「プロクラスティネイトするとは、ものごとの存在成立の成立を遅らせ、延期し、後回しにすることによって操作しようとすることであり、その存在成立の緊急性を先へ延ばすことによって操ろうとすること」(p. 202)。

プロクラスティネイト(=土壇場までやらない、土壇場になって初めてやる)は単にその人の怠惰さの表れだと考えられてきたが、バウマンにかかればそれは操作する権力に等しい、となる。さすが第一級の社会学者だ。

この解釈が思い起こさせるのがデリダの「差延」の概念。差異は時間とともに揺らぐ液状状態にあり、固形の状態になない。したがって常に(決定は)延期され続け、出発点、到達点はない、というものだ。現代思想家たちは僕(たち)のような凡人より一歩も二歩も先を考えているが、だからこそ逆説的に彼/女たちの着眼点はみんな似ているように思える。

現役通訳者が書評をしたら【4】『リスクとリターンで考えると、人生はシンプルになる!』



もはや情報に国境はなく、アメリカにいても勝間和代に影響されたか、『リスクとリターンで考えると、人生はシンプルになる!』(山崎元、ダイヤモンド社)を読んでみた。

読後の記憶に一番残った文章は「資格などを取ることで、自分に対する評価が自然に向上し、人間関係までうまくいくと思って勉強に逃避する人をよく見かけますが、これは有効な解決手段にはなりません」「他人に(何かを)提供できて、他人の役に立てば十分なのです」(p. 82)。

英語ではBook-smartな人(頭でっかち)とStreet-smartな人(現場派)と言い、前者の評価は低いが、上記の文章はまさにそれを言い換えたもの、と言えるだろう。そして自己再帰的self-reflecxiveになって自己反省self-reflectionしてみる。

また、「他人の役に立てば十分」というのは、大げさかも知れないが人によっては人生の指針ともなりうる名言であると思う。そう、人生で少しでも他者の役に立っていれば十分で、幸せなことなのである。

本書全体を要約すると「決断は投資と同じ、だからリスクとリターンの2つの変数で考えればよい」、「金、時間、自由は等価交換できる」、これに尽きる。僕は、人間の行動をすべて経済学的に考えてしまうことを「経済学還元主義」と揶揄するが、複雑なものを複雑に考えずに敢えてシンプルにしてしまいたい(フロイト流に言えば)神経症的な人にはもってこいの本だろう、と言ったら言い過ぎか。

2013年4月8日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【3】『西の魔女が死んだ』

『西の魔女が死んだ』(梨木香歩著、新潮文庫)を再読。本著には「渡りの一日」も収録されているが、「西の魔女が死んだ」にほとんどのページが割かれている。両者の主人公は同じ「まい」だ。

「西の魔女が死んだ」---。こんな印象的な一文で始まる物語は、「ハーフ」(またPC的には「ダブル」)の「まい」が主人公。祖母、母、そしてまいがの三代が中心人物として話が進む女系の物語。きれいに整えられた庭をもつ「おばあちゃん」は、バーモントの片田舎で1人で自給自足の生活をしていた園芸家ターシャ・チューダを思い出させる。

まいは中学校が苦痛になり、初夏の辺りのひと月ほどをおばあちゃんと暮らす。このセンシティブさは、メディアに顔を出さない梨木のセンシティブさと重なる。おばあちゃんから魔女の手ほどきを受けたまいは、最終的に西の魔女であるおばあちゃんから東の魔女と認定される、というビルディングスロマン(成長の物語)とも読める。

「とも」読める、と言ったのは、環境批評(エコクリティシズム)的な観点からも読まれているからだ。文章には様々な自然物が登場し、それらの自然が物語を牽引しているようにさえ思えてくるから不思議だ。これも魔女の魔法だろうか。

または異文化の物語とも読める。日本人と英国人(ちなみに梨木は英国に留学していた)の「ハーフ」であるまい、英語で「アイ・ノウ(I know)」、「ナイ・ナイ(Nighty Night;おやすみ)」と語りかけるおばあちゃん。片仮名が多発する本文はまさに異文化のナラティブだ。

複数の視点から読める「西の魔女が死んだ」。読めばあなたもその魔法にかかる。

現役通訳者が書評をしたら【2】『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』

一時話題を呼んだ『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(遙洋子)を再読した。著者でありタレントである遙が上野ゼミで学んだ数年間を面白おかしく書き綴った本。「本当の」遙と「書く」遙は違うだろうけど、その文章の底抜けの明るさに何か癒された。

一番印象に残っているのは逆説的だけど「本文」ではなく「あとがき」のこの言葉。「強くなるということは、言葉に振り回されない自分を作るということ」(p. 248)。きっと僕は弱いから言葉に振り回されるんだろうし、言葉に振り回されるから弱いんだろう。じゃあ、どうしたらいいのか?残念ながらこの本は処方箋を与えてはくれない。

ここで思い出すのが哲学者ジュディス・バトラーの『触発する言葉 言語・権力・行為体』。なぜ私たちが差別語に傷つくのか、という問いに1つ の回答を与えてくれる。差別語は差別語が投げかけられた人の「主体」(≒アイデンティティ)を構築するという意味で「必要悪」である。したがって「強くなるには」、そし て「言葉に振り回されない」ための第一歩は、それが傷つく言葉であってもその言葉をいったん受け入れれば自らの「主体」が構築され、それによって何らかの行動を起こすことができる、このことを頭だけでなく体で理解することだろう。

強くなりたい。