2013年5月28日火曜日

現役通訳者が書評をしたら【11】『図説 英語史入門』

『図説 英語史入門』(大修館書店)は敬愛する英語史の先生が共著者となっており、それがご縁で今回、拝読させてもらった。

第1章の序章に続く第2章が「英語の始まり―古英語期」、第3章が「中英語期」、第4章が「近代英語期」、そして最終章の第5章が「19世紀から現代英語期へ」となっている。目次を一瞥してお分かりのように、誕生から今日に至るまでの英語の生い立ちとその変遷が順を追って理解できるように構成されている。

英単語の意味や発音がどのように変遷してきたのか、英語が「英語」になる過程でどのような歴史的事象が関与していたのか、については本書をみていただければいいのだが、読みながら気づいたことは「英語」といっても1つの英語があるわけではない、ということ。発音1つをとってみても、階級、地域、ジェンダー、そして各時代で異なる発音が採用されているのみならず、国を超えてみれば、発音が異なるのみならず、その言葉自体が違う言葉で置き換えられていることさえある。

ということは、翻って、純国産の日本人が英語を話す際、発音としては日本語英語でもいい、ということになる。発音にキャノン(正典)がないのであれば、極論を言えば、似たような音を出してさえいればいいのだ。これを「脱ネイティブ神話」と呼ぼう。ネイティブ神話の脱構築だ。そして日本語英語を使い続けることで聴衆に日本語英語に慣れてもらえれば、日本語英語が次第に確立し、発音を気にしなくても日本語英語で自由に話せば、あとは相手が勝手に理解してくれる。まるでインド英語のように。

1冊の英語史入門からこんな洞察を得られるとは思ってなかった。思いがけないギフト(贈り物)、棚から牡丹餅、である。

さぁ、書物を捨てよ、日本語英語を使おう。

2013年5月20日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【10】『 もたない男』



『もたない男』―『モテない男』ではない―を読んだ。『じみへん』などで知られる漫画家・中崎タツヤの著である。捨てたくてたまらない作者の部屋にはモノがほとんどなく、客人は「部屋の内見に来たようだ」と宣う。

一例を挙げると、固定電話は使わないから捨てる、遊んでしまうからパソコンも捨てる……。ここまでは「常識」の範囲内だが、本棚に合わせて本をカットし(決して逆ではない)、インクが減るたびにボールペン本体を短くしていく、となると「常識」の範囲を超えると思う人が多いだろう。

ではなぜこの本を手に取ったのか。断捨離ブームに影響されたのか、僕もモノを捨てるのが大好き、できるのであればモノは持ちたくない。そしてその範囲は「常識」をやや超えるように思う。たとえばカロリーメートを食べるとして、ブロック4つのうち1つを食べたとしよう。そこで残り3つのブロックが残っていても箱を捨てたい衝動に駆られ、実際に捨ててしまう。

この意味で、『もたない男』を手に取ったのは必然だった。

別の見方をすれば、物欲が少ない「さとり世代」のはしり(学部を卒業した年は第一次就職超氷河期で、バブルのおこぼれには預かっていないのが証左)なのかも知れないが、欲がない訳でなはない。「捨てたいという欲」が強いのだ。

ではなぜモノを捨てたいのか?中崎は「仕事に集中したいから」という。が、そのウラにある無意識の欲望とは?

ちょうどそんなとき、ジャン=ジャック・ルセルクル『言葉の暴力「よけいなもの」の言語学』(岸正樹訳)を手にした。同書でルセルクルは"the remainder"を「言語学の分野でフロイトの『無意識』に相当するもの」と述べる。言葉遊びや隠喩、洒落、誤用といった従来の言語学が"the remainder"(残余物、余計なもの)として過小評価してきた言葉の無意識的現象を分析し、言語学の脱構築をはかる。

これに基づけば、モノを捨てたい人にとってモノは"the remainder"なのであり、「無意識」なのだ。無意識は、人が意識できないにも関わらず(?)人を支配するモノ。ワレワレはこの得体の知れない支配者を取り除きたいのだ。言い換えれば、無意識を支配したいという欲望、権力の表れなのである。しかし実際にそれができない「もたない男」「もたない女」は、モノを捨てるという反復的強迫行為で代用する。中崎が強迫神経症のようにみえるのもこれに由来している。

「もたない男」「もたない女」はいつでも引っ越しができる旅人、モノを持ちたいという欲望から解放されたエコな自由人、と言えば聞こえがいいが、実は欲望と権力にとりつかれた不自由な男女なのである。

そういえば、旅人といえばスナフキン。そのスナフキンがこんなことを言っている(http://d.hatena.ne.jp/suzushige/20050309/p2)。

- ぼくは、あっちでくらしたり、こっちでくらしたりさ。今日はちょうどここにいただけで、明日はまたどこかへいくよ。テントでくらすって、いいものだぜ。きみたちは、どこかへ行くとちゅうかい?
- 自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもね。
- なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんを持ち歩くよりも、ずっと楽しいね。
- それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。すててしまえよ。小さなパンケーキ焼きの道具も。ぼくたちには、用のなくなった道具だもの。
- もちものをふやすということは、ほんとにおそろしいことですね。

中学時代の僕の仇名―それはスナフキンだった。

2013年5月5日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【9】『快楽上等!』

大学院へ「入院」していたころ、フーコーの『性の歴史 第1巻』をよく読んだ。正確には4度。3度は日本語で、1度は英語で。英語で読 んだのは自慢するためではなく(自慢にならないかも知れないが)、博士論文を書く資格をもらう試験で読まなければならなかったからである。

このフーコーの本は初めて文系で取り組まれた「性」についての硬派な本、と言ってよい。それまでは生物学、医学などの理系分野で扱われるのみだった「性」が、文系という学問の対象にもなる、「性」は歴史的に普遍ではなかった、ということが読んでみてよくわかる。フーコーはこう言った、近代社会は性についての言説が抑圧された(「抑圧仮説」)のではなく、言説が増大しそれが統制された、と。目から鱗である。

そんな統制に逆らうように、下ネタ学者の上野千鶴子(元トーダイの先生だ)と作曲家・湯山昭の娘である湯山玲子の対談集『快楽上等!』(幻冬舎)が上梓された。美魔女、女の女装戦略、マグロ化する男、リア充女、カツマー、女性の自慰、アンチ挿入主義、最良のセックス、加齢とセクシュアリティ、おひとりさま……と、ジェンダー・セクシュアリティ・ネタが満載。

こういうネタに嫌悪感を抱く人もいるだろう。 『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』(原書房)を著したレイチェル・ハーツは、セックスは私たちの動物性を思い出させ、そして動物性は死につながるから嫌悪感を抱く、と述べる。 でも『快楽上等!』の帯にはこうある、「人生のキモチよさをあなたはまだ知らない」。私たちは快楽について何も知らないまま、嫌悪感だけを抱かさせられて死に向かっているのかも知れない。

いずれにしても「性」について「こんな見方があったのか」と気づかされるばかりの『快楽上等!』は、息もつかせない展開・対談で最初から最後までいっきに読める。

一つ気になったのは、たとえば「3.11以前と3.11以降の女のサバイバル術」のように、3.11以前/3.11以降という二項対立をつくり出していること。3.11によって何が変わったのか、何が変わらなかったのかについては精査が必要がある。被災地の1つである仙台出身者の僕にとってこれは切実は課題である。

『快楽上等!』、この本の書評の中で思い出すのは、その筆力に前々から目をつけていたキョンキョンが読売新聞に寄稿した書評。
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生き方の受験勉強
 まもなく47歳になる独り身の私は、これから先の人生をどう生きたらいいのか、もちろん考える。
 今のうちにたくさん働いて将来はみんなで一棟のマンションを買って助け合いながら暮らそうなんてことをよく女友達と冗談のように語り合っている。本当は結構本気だったりする。いつの間に私の将来から恋愛や結婚、即ち男の人の存在が消えてしまったのだろう。
 上野千鶴子さん1948年 生まれの社会学者。湯山玲子さん1960年生まれの著述家。ひと回り年齢の離れた女2人の対話は3・11から始まり、恋愛、結婚、快楽、加齢など私にとっ て興味津々の議題ばかり。それらの議題について思った以上に赤裸々に語り合う頼もしい先輩方。2人の会話に参加している気分で、そういう事だったのかと何度も頷(うなず)き、何度も痛い所を突かれ、最終的には頭の中がスカッとした。
 恋愛の先にはいつも結婚や 出産や家族という未来が見えていた。長い間その思いに捉われて生きていた。離婚を経験した私でもついこの間までそんな思いに揺れていた。やっと解放されたというのに今度はどこに向かっていいのか迷子のような気分だった。その原因がはっきりしたし、上野さんのいう「選択縁」「最後の秘境は他人」などの言葉に答えがあるのだと思った。仕事をしながら生きる女としての矜持(きょうじ)や美意識、何よりこの先を生きてゆくパワーが心にムクムク沸き上がるような気持ちになれた。人と話をするのは大切な事だと思う。自分ひとりじゃ辿(たど)り着かない方向に行き着くことが出来るのが会話なのだと思う。話す相手が自分よりも知識や経験が豊富だとより遠くの場所まで辿り着く事が出来る。実際、私は本を読んだだけなのだけれど結構遠くまで気持ちよく流されました。
 生まれて初めて教科書や参考書以外の本にラインマーカーを引きまくった。私の未来。新しい世界、新しい生き方への受験勉強をしているみたいで楽しかった。晴れて合格しますように。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130204-OYT8T00883.htm
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『快楽上等!』には既述のように下(シモ)半身ネタ満載なのだが、さすが元アイドルのキョンキョン、その辺りは「快楽」の一言で片づけてしまっている。が、いずれにしても、おそらく上野さんと湯山さんが一番読んで欲しかった層にキョンキョンがいることもあって、本書のメッセージはキョンキョンの心の襞に触れたようだ。

もしキョンキョンに会う機会があれば、彼女が本書から学んだ「新しい世界、新しい生き方」について聞いてみたい。僕には「快楽」についてもそっと話してくれるだろうか。

現役通訳者が書評をしたら【8】『ゲイ・スタディーズ』

「ゲイとは?」。そう聞かれて「陽気なという意味だろ?」と答えたアナタは英語の達人。同性愛者たちは、それまで自分たちのラベルとして与えられてきた「ホモhomo」という蔑称に対抗するため、「陽気な」を意味する「ゲイgay」という言葉を自分たちに宛がい、集団としてのアイデンティティを構築することでホモフォビア(同性愛嫌悪)に抵抗する手段としてきた。

ニューヨークのBookOffでみつけて購入した『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也)は、ゲイ・アイデンティティ、ホモフォビアの構造などに歴史的、理論的、実践的に取り組んだ労作。彼らが所属する(していた?)「動くゲイとレズビアンの会(略称アカー)」で2年間にわたって開催された「アイデンティティ研究会」での議論に基づいて執筆されたという本書は、同会で繰り広げられたであろう熱い議論が紙面から伝わってくる。

アカーはは1990年2月に東京都立「府中青年の家」(現在は閉鎖)を宿泊利用した際、同性愛者の団体であるという理由だけで他の宿泊利用の団体から嫌がらせを受けた。そのためアカーは裁判に持ち込み、一審での完全勝訴に続き、1997年の東京高裁でも全面勝訴を勝ち取った。

この1997年に出版されたのが同書である。この本は3人の著者によって執筆されていることもあり、内容が多岐に渡るが、一貫しているのは「異性愛者/同性愛者の二項対立を疑い続けよう」というメッセージである。二項対立が存在する場合―たとえば男性/女性、人間/自然、そしてもちろん異性愛者/同性愛者―、この左右の項は決して平場の関係にはなく、逆に権力関係にある。言い換えれば、男性=女性、人間=自然、異性愛者=同性愛者、ではなく、男性>女性、人間>自然、異性愛者>同性愛者なのだ。

そして左側の項―男性、人間、異性愛者―は自分たちのアイデンティティを顧み、悩む必要はない。なぜなら右側の項―女性、自然、同性愛者―というカテゴリーを構築し、差別することで成り立っているからだ。したがって押し付けられたアイデンティティに悩まなければならないのは左側の項、被差別者たちとなる。

しかしここで一歩引いてこの問題をみてみると、左側の項がなければ右側の項のアイデンティティもなくなってしまうのではないのか、ということに気づく。女性がいなければ男性もいないのでは?同性愛者がいなければ、異性愛者もいないのでは?こんなワクワクする、目鱗の問いかけと議論が本書を通じて行われている。

What's your sexuality?

2013年5月2日木曜日

現役通訳者が書評をしたら【7】『日本人を<半分>降りる』

異文化に住む<日本人>にとって日本を相対化することは常態となる。だから中島義道の『日本人を<半分>降りる』(ちくま文庫)をニューヨークのBookOff手にとったのも偶然ではなく必然だった。
この神経症的な哲学者は非常に音に敏感である。車内放送がうるさいバスの会社に苦情を述べ、選挙カーにも文句を言い、駅から勤務校に向かう際には静かな道を選んで通勤する。私も音に敏感(五月蠅い)なので気持ちはよくわかるが、そこまでする勇気と体力時間は残念ながらない。
それよりも印象的だったのは<自然>についての記述。日本人の季節感は「言葉を介した観念的定型的な季節感なのだ」(p. 162)と喝破する。「『師走』という言葉の雰囲気のうちに季節感を感じとる。そうして感じとった言葉を逆に周囲の自然に投入して、そこに定型的な(お墨付きの)季節感を読み込んで、しみじみと情感に浸るのである」(p. 162)。
 
中島は例として明治政府が推進した小学唱歌をあげる。そこに登場する「さくら」や「紅葉」が描き出す季節感を<われわれ>は共有「しなければならない」のだ。「そうでないと、ほんとうの日本人にはなれないのだ!」(p. 162)。
 
この「しなければならない」という義務感を中島は権力論につなげる。日本人の季節感は結局権威づけられたものであり、したがって日本では自然と権力が融合してしまっている。自然は「権力を介した自然」(p. 164)なのだ。そしてその自然を無批判に受け入れる日本人は、権力も「自然に」受け入れる。ここに権力に従順な国民が誕生し、車内放送にも選挙カーも丸ごと受け入れる国家が誕生する。
 
ウィーンに住んだことがある中島は、もちろん文化相対的な視点を忘れるはずはない。上述の事柄は「ある程度どの文化にも言える」p. 162。しかし「とりわけわが国の文化はこうした定型的な感受性をひたすら熱心に育成してきたように思われる」(p. 162)のだ。
 
もし<日本人>である自分が感じる<自然>が「権力を介した自然」であり、「『本当の』自然」でないとしたら?もしそれが正しいのであれば、この体に染みついた「権力を介した自然」感を剥ぎ取り、「『本当の』自然」を感じることは可能なのか?

中島の突きつける身も蓋もない事実を前に、僕はただ立ち尽くす。