2013年5月20日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【10】『 もたない男』



『もたない男』―『モテない男』ではない―を読んだ。『じみへん』などで知られる漫画家・中崎タツヤの著である。捨てたくてたまらない作者の部屋にはモノがほとんどなく、客人は「部屋の内見に来たようだ」と宣う。

一例を挙げると、固定電話は使わないから捨てる、遊んでしまうからパソコンも捨てる……。ここまでは「常識」の範囲内だが、本棚に合わせて本をカットし(決して逆ではない)、インクが減るたびにボールペン本体を短くしていく、となると「常識」の範囲を超えると思う人が多いだろう。

ではなぜこの本を手に取ったのか。断捨離ブームに影響されたのか、僕もモノを捨てるのが大好き、できるのであればモノは持ちたくない。そしてその範囲は「常識」をやや超えるように思う。たとえばカロリーメートを食べるとして、ブロック4つのうち1つを食べたとしよう。そこで残り3つのブロックが残っていても箱を捨てたい衝動に駆られ、実際に捨ててしまう。

この意味で、『もたない男』を手に取ったのは必然だった。

別の見方をすれば、物欲が少ない「さとり世代」のはしり(学部を卒業した年は第一次就職超氷河期で、バブルのおこぼれには預かっていないのが証左)なのかも知れないが、欲がない訳でなはない。「捨てたいという欲」が強いのだ。

ではなぜモノを捨てたいのか?中崎は「仕事に集中したいから」という。が、そのウラにある無意識の欲望とは?

ちょうどそんなとき、ジャン=ジャック・ルセルクル『言葉の暴力「よけいなもの」の言語学』(岸正樹訳)を手にした。同書でルセルクルは"the remainder"を「言語学の分野でフロイトの『無意識』に相当するもの」と述べる。言葉遊びや隠喩、洒落、誤用といった従来の言語学が"the remainder"(残余物、余計なもの)として過小評価してきた言葉の無意識的現象を分析し、言語学の脱構築をはかる。

これに基づけば、モノを捨てたい人にとってモノは"the remainder"なのであり、「無意識」なのだ。無意識は、人が意識できないにも関わらず(?)人を支配するモノ。ワレワレはこの得体の知れない支配者を取り除きたいのだ。言い換えれば、無意識を支配したいという欲望、権力の表れなのである。しかし実際にそれができない「もたない男」「もたない女」は、モノを捨てるという反復的強迫行為で代用する。中崎が強迫神経症のようにみえるのもこれに由来している。

「もたない男」「もたない女」はいつでも引っ越しができる旅人、モノを持ちたいという欲望から解放されたエコな自由人、と言えば聞こえがいいが、実は欲望と権力にとりつかれた不自由な男女なのである。

そういえば、旅人といえばスナフキン。そのスナフキンがこんなことを言っている(http://d.hatena.ne.jp/suzushige/20050309/p2)。

- ぼくは、あっちでくらしたり、こっちでくらしたりさ。今日はちょうどここにいただけで、明日はまたどこかへいくよ。テントでくらすって、いいものだぜ。きみたちは、どこかへ行くとちゅうかい?
- 自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもね。
- なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんを持ち歩くよりも、ずっと楽しいね。
- それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。すててしまえよ。小さなパンケーキ焼きの道具も。ぼくたちには、用のなくなった道具だもの。
- もちものをふやすということは、ほんとにおそろしいことですね。

中学時代の僕の仇名―それはスナフキンだった。

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