2013年5月2日木曜日

現役通訳者が書評をしたら【7】『日本人を<半分>降りる』

異文化に住む<日本人>にとって日本を相対化することは常態となる。だから中島義道の『日本人を<半分>降りる』(ちくま文庫)をニューヨークのBookOff手にとったのも偶然ではなく必然だった。
この神経症的な哲学者は非常に音に敏感である。車内放送がうるさいバスの会社に苦情を述べ、選挙カーにも文句を言い、駅から勤務校に向かう際には静かな道を選んで通勤する。私も音に敏感(五月蠅い)なので気持ちはよくわかるが、そこまでする勇気と体力時間は残念ながらない。
それよりも印象的だったのは<自然>についての記述。日本人の季節感は「言葉を介した観念的定型的な季節感なのだ」(p. 162)と喝破する。「『師走』という言葉の雰囲気のうちに季節感を感じとる。そうして感じとった言葉を逆に周囲の自然に投入して、そこに定型的な(お墨付きの)季節感を読み込んで、しみじみと情感に浸るのである」(p. 162)。
 
中島は例として明治政府が推進した小学唱歌をあげる。そこに登場する「さくら」や「紅葉」が描き出す季節感を<われわれ>は共有「しなければならない」のだ。「そうでないと、ほんとうの日本人にはなれないのだ!」(p. 162)。
 
この「しなければならない」という義務感を中島は権力論につなげる。日本人の季節感は結局権威づけられたものであり、したがって日本では自然と権力が融合してしまっている。自然は「権力を介した自然」(p. 164)なのだ。そしてその自然を無批判に受け入れる日本人は、権力も「自然に」受け入れる。ここに権力に従順な国民が誕生し、車内放送にも選挙カーも丸ごと受け入れる国家が誕生する。
 
ウィーンに住んだことがある中島は、もちろん文化相対的な視点を忘れるはずはない。上述の事柄は「ある程度どの文化にも言える」p. 162。しかし「とりわけわが国の文化はこうした定型的な感受性をひたすら熱心に育成してきたように思われる」(p. 162)のだ。
 
もし<日本人>である自分が感じる<自然>が「権力を介した自然」であり、「『本当の』自然」でないとしたら?もしそれが正しいのであれば、この体に染みついた「権力を介した自然」感を剥ぎ取り、「『本当の』自然」を感じることは可能なのか?

中島の突きつける身も蓋もない事実を前に、僕はただ立ち尽くす。

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