2013年6月24日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【13】『性犯罪被害にあうということ』

発売当時、新宿東口の紀伊國屋書店でみかけてずっと気になっていた小林美佳の『性犯罪被害にあうということ』(朝日新聞出版、2008年)。マンハッタンのブックオフでたまたまみかけて今回、ようやく読むことができた。ジェンダー・セクシュアリティ研究を生業としていた僕にとって読まなければならない本だった。

どんな人も何らかの形でトラウマを抱えている。両親が離婚した、学校でいじめに遭った、家が裕福ではなかった、家族に重病の構成員がいた、等々。クリシェ(陳腐な表現)になるが、個人の痛みを量り、比較することは不可能である。

ではこの本がもたらす差異は何なのか?言い換えれば、この本が出版される価値があったのはなぜか?

1点目は、その被害のスティグマ(烙印)の強度にある。性犯罪被害者は社会において高い強度のスティグマを負う。そしてこれは通文化的であろう。たとえば同性愛者であることも社会のスティグマの強度は高いが、文化によっては同性婚が認められていたりと許容度が高く、したがってスティグマの強度が比較して低い場所もある。一方、性犯罪被害者のスティグマはおそらく普遍的に、つまり通文化(共時)的かつ通歴史(通時)的に一定してその強度が高いと考えられる。そんな中で被害を公的に明らかにしたことに価値がある。

2点目は個人のレベルにおいて。スティグマの強度が高いゆえに性犯罪者は無言化mutedさせられ、したがってこれまで性犯罪の被害者がどれほどのトラウマを負うのかということを共感、さらには理解することは困難であった。しかし本書を読めば、私たちは共感へ、理解へ一歩、歩みを進めることができる。以下のような文章を読めば、そのトラウマの程度が垣間見れる:

 加害者に対しては、いまも恐怖が先に立つ。顔や体臭を思い出そうとすると、相手を特定しようとすると、「カン!」と頭の中にショックが走り、拒否にも似た、考えられない状態になる。
 加害者はいま頃何を考え、どう過ごしているのだろう。私を襲ったことなど忘れてしまっただろうか・・・・・・。
 「連れ込んだ女が生理でさぁ」と友達に笑いながら話しているだろうか。そう考えると、悔しくてたまらない。
 『お願いだから、反省していて』と思う。(pp. 186-187

このように2つのレベルで本書は価値を有する。

また個人のトラウマは周りの人間との軋轢を生み出してしまう。本書を通じて小林は、事件後の彼との軋轢、両親との軋轢も細かく描写している。その彼とは結局、結婚し、しかしトラウマ、そして他の要素も絡まって離婚に至る。一方、両者歩み寄りをみせず、関係が拗れてしまっていた両親、特に母親とは最後に和解の様相をみせる:

母さんはね、事件のことを思い出したくないの。あんたは私たちのことを恨んでいるかもしれないけれど、母さんはね、もしもあんたが自殺なんかしちゃったら、お父さんたちには悪いけど、一緒に死のうって決めてたのよ。だって、わかってあげられないんだもの・・・・・・(p. 203
小林はこの本を持って性犯罪被害者としてカミングアウトした。カミングアウトと言う用語は英語のcoming out of the closetに由来する。この言葉は系譜学的に性的少数者が使い始めた用語で、クローゼット(押入れ)の中に閉じ込められた状態から抜け出し、自分たちは性的少数者であることを公表することで差別の実態を可視化させ、社会にインパクトを与えること意味する。

小林も性犯罪被害者がクローゼットで泣き寝入りさせられている状態、唖構造muted structureから他力を借りつつも自力で抜け出し、性犯罪被害者であることをカミングアウトした。この想像するに悩みに悩んだ上での決断を讃えない訳にはいかないし、日本社会に大きくはないかも知れないけれど何らかのインパクトを与えたはずだ。こういう勇気あるミクロな行為の1つ1つが不均衡なマクロな社会を均衡化していくのである。

2013年6月16日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【12】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

つくるくんは私だ。

と、言ったら言い過ぎだろうか。36歳の電車好きのオトコノコ、地方の政令都市出身で、大学進学のために上京。大学時代には友だちがおらず、語学好き。ここに自分を重ね合わさない訳がない。

しかし長薗安浩は「ベストセラー解読」『週刊朝日』で本書を「解読」し、こう書く。「再生のために『訪ねて尋ねる』というアプローチで過去と対峙する主人公とは違う方法で、はからずも自分の過去と向きあった」(http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013042500010.html)。つまり、主人公に自分を重ねあわせたのは自分だけではなかったのである。 常々、作家の役割は個別の事象を描くことで普遍に近づくことだと思うが、ということは村上は今回見事に普遍に近づいたのだ。

今年5月6日、村上春樹は久しぶりに日本で講演を行った。京都大学で行われたこの講演後、公開インタビュー「魂を観る、魂を書く」に村上は応じた。村上は、当初は短編になるはずだったものが長編になったのが同書だ、と言う。読者はこの長編の方を読める幸運を手にした。「こういう風に人をきちんと書くのは初めてのことだった。人間と人間のつながりに関心と共感を持った」(朝日新聞国際版、2013年5月8日) 。長薗の言うように、僕もはからずも自分の過去と向き合うはめになり、それは人間と人間のつながりを深く考える稀有な機会となった。

語用論的観点から同書を眺めてみると、まず気づくのは比喩が多いということ。しかも村上が生み出したであろう独自の比喩が非常に多い。同書の読後の感想として「文章がくどい」と言っている人がいたが、それは比喩が多すぎるせいかも知れない。『文學界』6月号の特集「村上春樹をめぐる冒険2013【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】」で沼野充義が「色彩、比喩、ノスタルジア」を書いているが、本を読んだ人なら、沼野がタイトルで「色彩」の後に「比喩」を持ってきたことに首肯しない人はいないだろう。

例を挙げよう。

「ふくらはぎあは釉薬が塗られた陶器のように白くつるりとしていた」(p. 64)
「胸の奥にやるせない息苦しさを覚えた。小さな堅い雲の塊を知らないうちに吸い込んでしまったようだった」(p. 64)
「言葉は出てこなかった。舌が膨らんでもつれ、口の中を塞いでいるような感触があった」(p. 175)
「過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた」(p. 307)
「つくるは東京で規則正しく、もの静かに生活を送った。国を追われた亡命者が異郷で、周囲に波風を立てないように、面倒を起こさないように、滞在許可証を取り上げられないように、注意深く暮らすみたいに」(p. 357)

しかし冗長で「くどく」思えるこのような比喩群も、村上が描きたいことに至るまでの「前戯」だと思えば次第に慣れてくる。いや、「前戯」をそのものを村上は描きたいのかも知れない。 

次に気づくのは英語が透けてみえる日本語だということ。村上作品の英語への翻訳者は数人いるが、誰もがある意味で翻訳しやすい、と思っているに違いない。「米国文化への愛感じる 村上春樹作品の翻訳者に聞く」(朝日新聞国際版、2013年5月15日)には『1Q84』を共訳したフィリップ・ガブリエルとジェイ・ルービンが登場しているが、記事のタイトルにあるとおり、村上の作品は米国文化への愛を感じさせるのだが、英語が透けてみえることもその一因だろう。

再び例を挙げよう。

「僕らの間に生じた特別なケミストリーを大事に護っていくこと」(p. 21)
「今それについて語るには疲れすぎている」(p. 79)
「じゃあ、幸運を祈っている」(p. 237)
「ピッツア」(p. 259)
「ウェイクアップ・コール」(p. 263)
「何が君をここまで運んできたのか」(pp. 299-300)
「早起きの鳥はたくさんの虫を捕まえることができる」(p. 346)

試に英語にしてみると:
"That we are going to carefully protect the special chemistry produced among us."
"I'm too tired to talk about it now."
"So, I wish you good luck."
"Pizza"(ピザではない)
"Wake-up call"(モーニング・コールではないのだ)
"What brought you here?"
"An early bird catches the worm."(英語の諺では「たくさん」とは入ってないが)

そしてこれを証明するかのように、現代の秀逸な米文学翻訳者である柴田元幸との対談で村上はこう告白する。「僕も最初の小説を書いたときは、とりあえず英語で書いて、それを全部日本語に訳し直して日本語にしたんです」(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』、p. 235) 。
 他に気づかされるのは人生の警句が多いこと。 村上は上述の公開インタビューで「魂のネットワークみたいなものを作りたい。人は魂の中に物語を持つ。それを、本当の物語にするには相対化が必要で、そのモデルを提供するのが小説家の仕事」(朝日新聞国際版、2013年5月8日)と喝破するが、警句は究極的にはそのような魂のネットワークを構築する一助となるだろう。

「自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります」(p. 66)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p. 307)
「身体の中心近くに冷たく硬いものが―年間を通して溶けることのない厳しい凍土の芯のようなものが―あることにふと気づいた。それが胸の痛みと息苦しさを生み出しているのだ。……それは彼がしっかり感じなくてはならないものなのだ。その冷ややかな芯を、自分はこれから少しずつ溶かしていかなくてはならない。時間はかかるかもしれない。しかしそれが彼のやらなくてはならないことだった。そしてその凍土を溶かすために、つくるは他の誰かの温かみを必要としていた。彼自身の体温だけでは十分ではない」(pp. 329-330)
「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」(p. 370)

どうだろうか。このような比喩、翻訳調、警句のレトリックが本書を奥深く、稀なものにしている。

一方、フェミニズム批評家の斎藤美奈子は本書を酷評する(http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013042500012.html)。「にしても『1Q84』はDVへの報復で今度はレイプと妊娠か。すべてお膳立てしてつくるを過去に旅立たせるのは沙羅、彼の未来に向けて強く背中を押すのは恵理。そして毎度おなじみのセックス描写。女の役割が男の支援者か性的対象だっていうあたりが古くさい」。しかしこれは、斎藤の言葉を借りれば「浅読み」というものである。今回は一組の男女の閉じられた単数の〈対(つい)〉を超えた複数の男女の性愛、そして異性愛と同性愛、さらにはホモソーシャルとホモセクシュアルが交差する極めて「クイア」な仕上がりになっている。斎藤の評は一面的、と言わざるを得ない。

ところで、既出の村上翻訳者であるガブリエル氏は、本書について「『ノルウェイの森』のようなリアリズムの小説。これまでと比べてより深刻で、悲観的なように見えるが、究極的には希望に満ちている」と評す。ルービン氏も「『ノルウェイの森』を想起させ、非常に興味深い」と述べる。今の私のベッドタイムリーディングはルービン訳の『ノルウェイの森』英語版である。

ベッドタイムリーディングと言えば、読み始めた際には本書を寝る前のベッドタイムリーディング用にしていたが、あまりに面白いのでカフェで読んでみたらなぜかあまり面白く感じられなかった。寝る前の意識と無意識が、そして現在と過去が邂逅するわずか時間にのみ読む本なのかもしれない。