2013年8月4日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【17】『負け犬の遠吠え』

10年ほど前に話題になった『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)。「負け犬」という語が登場した際、この言葉は「遠吠え」のように儚く消えていく流行語に終わると思われた。しかし悲しいかな(?)、10年経った現在でも十分に流通しており、列記とした辞書の一部を構成する用語となった(と思う)。

著者の酒井順子は自身が「負け犬」。「負け犬」とは酒井の定義によると「未婚、子ナシ、三十代以上の女性」(p. 7)。自身が「負け犬」だからこそ「負け犬」が気になるのであり、本を一冊著すほどまでに掘り下げて考えるのだ。


では負け犬の特徴とは?まず負け犬は老人臭い。

「負け犬の内面はずいぶんと老人臭いものなのです。それというのも負け犬には、自分のことだけを考える時間が、老人と同じくらいにたっぷりあるから。勝ち犬達が、結婚生活の維持とか子育てといったことに躍起になっている間、負け犬はひたすら内省しながら生活しています。ああでもない、こうでもない……と考えていく結果、精神はずいぶんと擦れ、老成し、諦念のようなものが浮かんでくる」(p. 136)。

「負け犬派の人々は、三十代前半から老後のことを考えています。一人でいて退屈しない方法を若
い時から開発し、一人メシや一人旅の楽しみ方も心得ている」(p. 205)。

「理想のグループホーム作りに燃えるか。それとも、一人暮らしを続けて、最後までたっぷりの孤独とたっぷりの自由の中で、生きるのか。……いずれにしても負け犬の生活のハイライトは老いてからにあり、なのだとは思います。」(p. 82)

こんな方、あなたの周りにも1人はいるだろう。

そして孤独な負け犬は「依存症」に罹る。歌舞伎や文楽といった日本の伝統文化にはまり、手芸にはまり、鉄道旅行にはまる。

また、大学や就職で地方にとどまらず、都会へと出てくる傾向にある。「自由」「個性」「可能性」といった言葉を好むからだ。都会は負け犬にやさしい。深夜でも開いている本屋、映画館、カフェ、マッサージ、ドンキホーテ……とハード面では事欠かず、ソフト面でも都会の無関心は負け犬にやさしい。

加えて、面倒くさ くて同性同士の方が分かり合えると「軽ホモ・軽レズ」(p. 69)に走る。だが、男の友達がまったくいない訳ではない。『ブリジット・ジョーンズの日記』『Sex and the City』『アリー・myラブ』等の「海外負け犬文学」(このネーミングも卓抜だ)では負け犬の男友達はゲイと決まっているが、日本の負け犬の男友達は幼馴染や司法試験を目指して浪人中の男友達、となる。

酒井はとことん(自分を含む)負け犬を相対化・客体化していくので、笑いと本書を繰る手は止まらない。デートを自慢する同世代の負け犬仲間に白髪があったり、 キンキ・キッズのコンサートに行ったと満面の笑みで語る負け犬仲間の目尻のシワが笑みが消えても残り続けているのを見ると「何か深ーい闇を覗いてしまった気分」(p. 190)になる酒井。またおしゃれな負け犬と話していたら胃が悪いのか息が臭かったり、高校時代にモテていた負け犬の顔にソバカスではなくシミが出現していたり、顔ではなく首や鎖骨付近にシワがよっているのをみて「恐怖心が募る」(p. 191)。文字通り(笑)である。

酒井の筆は負け犬の分析にとどまらず、処方箋まで出してくれる。負け犬の酒井は負け犬予備軍にやさしい。彼女たちに向けて「負け犬にならないための十か条」を説いてくれるのだ。

1. 不倫をしない
2. 「……っすよ」と言わない
3. 腕を組まない
4. 女性誌を読む
5. ナチュラルストッキングを愛用する(ナチュストは勝ち犬の象徴的存在で、エロさがある)
6. 一人旅はしない
7. 同性に嫌われることを恐れない
8. 名字で呼ばれないようにする(男性から名字で呼ばれることは、男性にとって気を遣わなくていい「壁紙にような存在感」[p. 257]を醸し出していることを意味する)
9. 「大丈夫」って言わない(自分で何でもできる人、というイメージが出来てしまう)
10. 長期的視野のもとで物事を考える(勝ち犬は「安定した老後を得るために、ナチュラルストッキングをはき続けることができる人」[p. 260]であり、「面白いことより、将来的に得なこと」[p. 21]を考えられる人である)

酒井のやさしさはここにとどまらない。すでに負け犬になってしまった「同志」に対しては「負け犬になってしまってからの十か条」を説く。

1. 悲惨すぎない先輩負け犬の友達を持つ
2. 崇拝者をキープ(異性で自分を崇拝してくれる友人を保持する)
3. セックス経験を喧伝しない
4. 落ち込んだ時の対処方法を開発する
5. 外見はそこそこキープ
6. 特定の負け犬とだけツルまない
7. 産んでいない子の歳は数えない(「あの人と結婚して子どもを産んでいればその子は今頃に何歳に……」と考えない)
8. 身体を鍛える
9. 愛玩要求を放出させる(年下の異性を愛玩扱いしないように小動物や観葉植物にその愛玩心を転移させる)
10. 突き抜ける(勝ち犬にはできない人生を送る)

ちなみに本書には「オス負け犬」というコラムが挿入されているが、上記の2つの十か条は「未婚、子ナシ、三十代以上の男性」である「オス負け犬」の僕にも参考になる信条だ。

これまで、小説家では坂口安吾、三木清、伊藤整、社会学者では作田啓一・・・らが孤独論を書いてきた。最近では上野千鶴子のベストセラー『おひとりさまの老後』(法研、2007年)もある。本書をメタの、歴史的な視点で位置付けてみると、酒井は、その系譜上で本書を通じて現代の孤独論を展開した、と言えるだろう。もちろん、「負け犬」という卓抜なネーミングを考案し、自分という負け犬をとことん相対化することを通じて。

2013年7月28日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【16】『身の下相談にお答えします』

とうとう身の上相談の回答者まで始めた上野千鶴子。彼女の「尻軽さ」には呆れるほどだ。しかも朝日新聞の読者から彼女に寄せられる相談内容はなぜか下半身に関するものばかり。そんな中から上野の回答をまとめた本書『身の下相談にお答えします』(朝日文庫、2013年)が誕生した。

タイトルの「身の下」と聞いて「スカ下」を思い浮かべるアナタは上野ファン。本の帯には「『スカ下』から『身の下』へ」と書いてあるが言い得て妙。そう、上野の初期の作品の1つが約50万部を売り上げた『スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(略して『スカ下』)であり、本書のタイトルは「スカ下」と「身の上相談」を組み合わせて誕生した。

上野は「あとがき 人生のお悩みの多くは身の下から来ます」で、回答に際して「たとえお役に立たなくても、少なくとも相談者を傷つけるようなことだけはしないでおこうと、わたしは決めました」(p. 275)と書く。実際、上野は相談者をギリギリ傷つけないラインを保ちつつ、相談者の相談に介入していく。「他人の人生をのぞき見するのって、ほんとにおもしろい。それに介入するのはもっとおもしろい。本来なら大きなお世話なのに、ご本人が介入を求めておられるのだから堂々とお答えできます。」(「あとがき」p. 277)。

では早速上野の絶妙な回答をみてみよう。「病床の父をののしる私」という50代の看護師からの相談にはこうある。乳がんになった際にお見舞いもねぎらいの言葉もなかった「実父に対し、これほどまで憎む自分を情けなく思い、父の死期が迫ったときに何と声をかけたらいいかと考えると涙がとまりません。育ててくれた父親に対して、感謝以上に憎しみが充満している私に、どうか解決策をお願いします」(p. 149)。これに対して上野は社会学者らしい極めて現実的なアドバイスをする。「親子関係は圧倒的に非対称なものです。親は自分が子どもにしたことはほとんど覚えていません。親に謝罪や感謝を求めてもムダ。愛も憎しみも、自分の心の中の帳尻合わせです。そして感情の帳尻というものは、合わないもの、と思ってください。帳尻の合わない自分の感情を否定せずに、それと向き合ってください。そして同じような思いを自分の子どもには味わわせないようにつとめてください」(p. 151)。なるほど。そして親から生まれてこない子はいない。この回答は、程度の差はあれ、誰にとっても身につまされるものだろう。

また「『婚活』をなじられます」という相談が52歳の女性から寄せられた。この女性は再婚を目指して婚活をしているが、それを親に反対されて悩んでいる。

この相談に対して上野は幸福論的、人生論的回答をする。「親の幸福より自分の幸福が大事。そう。自分のエゴイズムと向きあい、それを肯定するのが生きる覚悟というものです。でないとあなたは、これから始まるかもしれない介護生活のなかで、あのとき自分の幸福の邪魔をしたと、親をうらみ続けることになりますよ」(p. 172)。親の束縛から逃れらない人は、この文章を読んでギクッとしたはずだ。

「娘についひどい言葉を……」という相談を寄せた40代の主婦は次のようなひどい言葉を娘に言ってしまった、という悩みを上野に打ち明ける。「父さんと母さんは結婚したときから仲が悪くて、離婚しようとしたら、あなたを妊娠していた。だから離婚できず、今でも父さんに奴隷のように扱われ、不幸だ、あんたが生まれなければよかった、あんたが大嫌いだ」(p. 186)。しかし謝ったにもかかわらず娘から口をきいてもらえないこの母親は「これから先、どうしたらいいでしょうか。私はもう娘に謝る気はありません」(p. 186)と相談する。

それに対する上野の回答は極めて自己言及的になる。おそらく似たような経験があったのだろう。回答をみてみよう。「哀しいですねえ、女の人生は。……いつまでこんな哀しい相談を受けなければならないのでしょうか。……わたしは娘さんがかわいそうでなりません。それでなくても子どもは母親の不幸を見て、その不幸の責任が自分にあるのではないか、と思ってしまうけなげな生きものです。」(pp. 187-188)。

そして相談者の精神分析をし、こう喝破する。「こんな相談をくださるのは、あなたが娘さんに言い過ぎたと後悔しておられるからこそ。何度でも娘さんに謝ってあげてください」(p. 188)。そして最後に自己言及的なコメントで回答を締める。「ところでこれから先も、夫との不幸な生活を死ぬまで続けるおつもりですか。不幸な母親は子どもを不幸にします。どんなやり方であれ、まずあなたご自身が、不幸であることをやめること。そしてこれこそが、わたしの母が生きているあいだに、わたし自身が彼女に伝えたかったことです」(p. 189)。泣けるではありませんか。「あの」頭脳明晰な上野でさえ、母娘の物語をめぐる難問を現実世界で解くことができなかったのだ。

上野の歯切れのよい回答はとどまるところを知らない。「自信喪失した娘が心配です」と言う50代の主婦は、アルバイト生活を続けながら正社員の職へ応募を続ける、良縁にも恵まれない娘を嘆く。娘に金銭的な支援も続けるこの母親に対し上野は一刀両断。「自分の道を探すのは娘さん自身の課題です。親業のゴールは子どもからある日、『もうあなたは要らない』と言ってもらうこと。あなたはそのゴールをめざさなかったのですね。老後の安心のためにも子どもの自立がカギです」(p. 204)。

また、「自殺は本当にいけないですか」という無職の50代の男性から相談を受けた際には次のようにバッサリ。「そもそも本気で死ぬつもりのひとは、お悩み相談なんてしません。『死にたい』メッセージは、その実『死にたくない』メッセージ。自殺者がたび重なる自殺予告をすることは知られていますが、それはそのメッセージを受け止めてほしいというアピールです」(pp. 239-240)。ぐうの音も出ない。

そして極め付けは、朝日新聞に掲載された結果、最も論議を呼んだ「性欲が強すぎて困ります」という15歳の中学生男子からの相談に対する回答だった。下記がその上野の回答。Are you ready?

「経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください。断られてもめげないこと。わたしの友人はこれで10回に1回はOKだったと言っています。昔は若者組の青年たちの筆おろし(って知ってますよね)を担ってくれる年上の女性たちがいたものでした。わたしだってもっと若ければ……ただし相手のいやがることは決してしないこと。ご指導に従って十分な経験を積んだら、ほんとうに好きな女の子に、お願いしましょうね。コンドームの準備は忘れずに。」(pp. 42-43)

「わたしだってもっと若ければ……」(笑)。ウエノチヅコにしかできない回答だ。

いずれにしても、上野は回答者の複雑な心理状態をほぐして、次々と処方箋を出していく(ちなみに上野の亡き父も兄弟も医者である)。その様子はまさに「快刀乱麻を断つ」だ。他の媒体で彼女は「若い頃は時間を持て余しており、反吐が出るほどマージャンとセックスをやっていた」と明け透けに語っていたが、そんな経験がこの人物を身の下相談の唯一無二の回答者として育て上げたのである。

2013年7月12日金曜日

現役通訳者が書評をしたら【15】『<おんな>の思想 私たちは、あなたを忘れない』


友人がニューヨークに遊びに来るというので、頼んで買ってきてもらったのが上野千鶴子『<おんな>という思想』だった。

同書は2部構成からなる。第1部に5人の日本女性による著書(森崎和江、石牟礼道子、田中美 津、富岡多惠子、水田宗子)、第2部に6人の非日本人による著書(フーコー、サイード、セジウィック、スコット、スピヴァク、バトラー)が紹介されており、盛り沢山な内容だ。前半の日本語文献は「<おんなの本>を読みなおす」『集英社インターナショナルWEBブログ』から、後半の翻訳文献は「ジェンダー で世界を読み解く」『すばる』からの転載である。最後の「境界を攪乱する ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』フェミニ ズムとアイデンティティの攪乱」のみが書き下ろしになっている。

上野は同書を執筆するに至った動機をこう記す。「本書はわたしが読んできた本、そして力を得た本、それから私の血となり肉となった本を選び抜いて論じたものである。」(p. 296)。そして第1部の扉ではこう書く。

「彼女たちのことばは肺腑に沁みた。そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない。わ たしの魂をゆさぶることばをわたしに送ったのが、おんなの書き手ばかりであったのは、たんなる偶然だろうか。そしてそういう女性たちと同時代を生きて、彼女たちのことばをたしかに聴きとったことを、次の世代のおんなたちに伝えたい。」

しかし、「そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない」と言ったものの(<おとこ>としては寂しい限りだ)、第2部では2人の男性思想家が入っている。<おんな>の思想、にも関わらずである。これについて上野は第2部の扉でこう説明する。

「『<おんな>の思想』と銘打ちながら、そのなかにふたりの男性思想家が含まれていることを奇異に感じる読者もいるかもしれない。 だが、「おんなの思想」とは「おんな/おとこ」をつくりだす思想のこと、と言いかえてもよい。いや、もっと正確にいえば、「おんな/おとこ」をつくりだすしかけを暴き出す思想、と。それならフーコーの貢献は忘れるわけにいかないし、ポストコロニアリズムにおけるサイードを無視することはできない。」

上野の「<おんな>の思想」にこの2人の男性思想家が入るのは必然だった。

ところで上野は、同書について次のようにメタ批評している。「自分でいうのもなんですが、力の入った本になりました。」(http://wan.or.jp /ueno/?p=3183)「自分でいうのもなんだが、力のこもった書物になった、と思う」(p. 301)。しかし、 そこはやはり生身の人間、力が入っているものもあれば、そうでないものもある。というよりは読みが深いものもあれば、浅いものもある、と言った方が正確だ ろう。前者の例としては富岡多恵子、水田宗子、スコット、後者の例としてはフーコー、サイード、セジウィックが挙げられる。

特に水田の『物語と反物語の風景 文学と女性の想像力』論には力が入っている。水田の書自体に力が入っているからかも知れない。この本は、その一部が『新編 日本のフェミニズム』12巻のうち『フェ ミニズム文学批評』にも収められるに至った、明快な語り口の論理的な書籍だ。教壇に立っていた東大で上野がゼミでこれを取り上げた際、『物語』は辛口評論家の豊崎由美に「この論文を読めただけでも『フェミニズム文学批評』を読んだ価値があった。」と言わしめた、というエピソードを上野は紹介しているが、それほど水田の面目躍如たる著書である。それを上野は、若いころの水田と交した対話を文脈に挿し込みながら評論を進める。雑誌「ダ・ヴィンチ」誌上で、自身に影響 を与えた本としても上野がこの水田の本を挙げていたと記憶している。

一 方、石牟礼論についてはYes and Noだ。環境文学を生業としている者として、石牟礼についての卓抜な分析、論文は山のように読んできた。その水準から上野の石牟礼論を読むと物足りなく感じる。しかし既読の論文は、あたかも恣意的かのように石牟礼文学をジェンダーの視点で分析することを怠ってきた。上野は今回、石牟礼文学を自家薬籠中の物としたジェンダーという変数で読み解いており、この意味で評価できる。

上野はこうも書く。

「詩より小説は、そして評論は、迂遠な自己表現の方法だ。」(p. 110
「批評は迂遠な自己表現の回路である。」(p. 127
「本書は、わたしが選び抜き、今では古典となった書物を、ほかでもないこのわたしがどんなふうに読んできたか、の記録でもある。それはわたしがいかにつくられたか、ということの証言でもある」(p. 296

同書はもちろん<おんな>という、もっと正確に言えば<おんな>というカテゴリーをめぐる思想に大きな影響を与えた先哲が取り上げられているのだけれど、その読みは上野の読みであり、上野の評論、批評である。だから本書を読めば<上野千鶴子>の頭の中をちょっと覗いたような気になる。あなたが窃視症的な上野ファンなら、本書を読んでいる間、オルガスム(もちろん比喩だ)は止まないだろう。

この意味で、本書の表題は『<おんな>という思想』ではなく、『<上野千鶴子>という思想』であるべきだったのだ。

2013年7月8日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【14】『秘密』

弟が東野圭吾にはまっているのを数年前に実家で横目で見ていた。それ以降、気になっていたこの人気の小説家。今回、彼の『秘密』をガレージ・セール(アメリカの象徴だ)でたまたま手にし、読み始めたらページを繰る手は只々止まらなかった。
120回直木三十五賞候補、第20回吉川英治文学新人賞候補となっており、第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しているこの作品は、限りなくリアルな空想小説である。
物語は妻と娘がスキー旅行に 出掛けた場面から始まる。乗っていたバスが崖から転落し、娘・藻奈美だけが奇跡的に助かる、しかしその娘の体に宿っていたのは死んだはずの妻・直子だった。 主人公で直子の夫・平介はその秘密を隠し通しながら、藻奈美であり直子である存在と奇妙な生活を始める。平介は相変わらずのサラリーマン生活を続けるが、 直子は藻奈美として「生まれ変わった」機会を利用し、何の特色もなく過ごしていた直子時代を反省、中学受験、高校受験を経て、果ては医学部を目指す。

し かしこの小説は、「生まれ変わった」機会を手にした人物が成長していく、というビルドゥングスロマン(教養小説)の変種として読み解くのは正しくない。正 しいのは「性」という変数をもって読む読み方である。「性」をめぐって展開するミステリー、そして「性」自体がミステリー、という二重の意味でこの本は 「性のミステリー」なのである。詳述しよう。

物 語は「性」を軸に展開する。直子の肉体を失ってしまった平介は藻奈美の担任に惚れ、写真を撮ってそれをオカズに自慰行為をする。しかしそれ以上に手出しは しない。北海道出張中にソープランドを試すことはあったが、これもうまくいかなかい(=いけない)。東野は平介にこう言わせる。「勃起すらしない。つまり 男であって男ではない。」(p. 261)。「勃起が男であることの証明である」というこの命題=クリシェ(陳腐な言葉)には辟易するが、それは直子に対する愛情の裏返しでもある。
一方、藻奈美としての直子は 高校で平介が関与しない独自の世界をつくり始め、テニス部に入部、先輩に淡い恋心を抱き、平介はそれに嫉妬しストーカーと化す。しかし直子の言い知れない 苦しみ、つまり平介以外には打ち明けられない「秘密」(本書のタイトルだ)を守り続けなければならない直子の苦しみを平介は次第に理解し、態度を改め始め ると、直子という心が現れる時間は徐々に減り、代わりに姿を消していた藻奈美の心が交代で現れ始める。二重人格の状態だ。直子と藻奈美はお互いが存在して いることを認知しているという意味で交代性の二重人格(エレンベルガー『無意識の発見』) である。そして藻奈美が顔を出している際に困らないよう、直子は藻奈美宛に自分が過去にそしてその日に経験したことを手紙に認め始めるが、ここでドストエ フスキーの『分身』や謡曲の『井筒』、さらには狐憑きを思い出さない訳にはいかない(小林敏明『精神病理からみる現代思想』)。
しかし解説で推理小説家の皆川博子が書くように「二人(註:平介と直子)とも、ストイックなまでに互いに誠実」(p. 451)な関係を続ける。そして皆川はこう問いを投げかける。「夫は、娘の肉体を持った妻を抱けるか。」(p. 451)。答えはノー。平介と直子は何度か性交渉を試みるが、直子が自分の娘の姿をしているだけにうまくいかない(=いけない)。文化人類学者たちが見つけ出した近親相姦のコードはここまで強いのだ。そしてセクシュアリティは身体的なものではなく両耳の間(=脳)で発生する。

「恋愛相手の選択は見かけではない、中身である」という人がいる。このデカルト由来の心身二元論に基づいた言説は本当なのだろうか。もし本当だったら平介は直子の心を持った藻奈美に萌えられたのではないか。体は藻奈美で心は直子であるこの少女は藻奈美なのか直子なのか。平介は「目に見えるものだけが悲しみではない」(p. 409)と別の文脈で述べるが、実際には目に見えるものが意識を支配してしまうのか。数十万部を突破した『人は見た目が9割』(竹内一郎)はフロックではなかったのか。巷で言う「心がつながった」性行為というのは嘘で、「体だけの関係」でしかないのか。「性」とは、そして「心」「体」とは?

読者は読後にこの解けない問いとともに放り出される。そして親密圏の他者(=恋愛相手)を見るたびに、その体には別な誰かが宿っているのかも知れない、と空想するようになる。この意味で、本書は「限りなくリアルに近い空想小説」なのだ。

2013年6月24日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【13】『性犯罪被害にあうということ』

発売当時、新宿東口の紀伊國屋書店でみかけてずっと気になっていた小林美佳の『性犯罪被害にあうということ』(朝日新聞出版、2008年)。マンハッタンのブックオフでたまたまみかけて今回、ようやく読むことができた。ジェンダー・セクシュアリティ研究を生業としていた僕にとって読まなければならない本だった。

どんな人も何らかの形でトラウマを抱えている。両親が離婚した、学校でいじめに遭った、家が裕福ではなかった、家族に重病の構成員がいた、等々。クリシェ(陳腐な表現)になるが、個人の痛みを量り、比較することは不可能である。

ではこの本がもたらす差異は何なのか?言い換えれば、この本が出版される価値があったのはなぜか?

1点目は、その被害のスティグマ(烙印)の強度にある。性犯罪被害者は社会において高い強度のスティグマを負う。そしてこれは通文化的であろう。たとえば同性愛者であることも社会のスティグマの強度は高いが、文化によっては同性婚が認められていたりと許容度が高く、したがってスティグマの強度が比較して低い場所もある。一方、性犯罪被害者のスティグマはおそらく普遍的に、つまり通文化(共時)的かつ通歴史(通時)的に一定してその強度が高いと考えられる。そんな中で被害を公的に明らかにしたことに価値がある。

2点目は個人のレベルにおいて。スティグマの強度が高いゆえに性犯罪者は無言化mutedさせられ、したがってこれまで性犯罪の被害者がどれほどのトラウマを負うのかということを共感、さらには理解することは困難であった。しかし本書を読めば、私たちは共感へ、理解へ一歩、歩みを進めることができる。以下のような文章を読めば、そのトラウマの程度が垣間見れる:

 加害者に対しては、いまも恐怖が先に立つ。顔や体臭を思い出そうとすると、相手を特定しようとすると、「カン!」と頭の中にショックが走り、拒否にも似た、考えられない状態になる。
 加害者はいま頃何を考え、どう過ごしているのだろう。私を襲ったことなど忘れてしまっただろうか・・・・・・。
 「連れ込んだ女が生理でさぁ」と友達に笑いながら話しているだろうか。そう考えると、悔しくてたまらない。
 『お願いだから、反省していて』と思う。(pp. 186-187

このように2つのレベルで本書は価値を有する。

また個人のトラウマは周りの人間との軋轢を生み出してしまう。本書を通じて小林は、事件後の彼との軋轢、両親との軋轢も細かく描写している。その彼とは結局、結婚し、しかしトラウマ、そして他の要素も絡まって離婚に至る。一方、両者歩み寄りをみせず、関係が拗れてしまっていた両親、特に母親とは最後に和解の様相をみせる:

母さんはね、事件のことを思い出したくないの。あんたは私たちのことを恨んでいるかもしれないけれど、母さんはね、もしもあんたが自殺なんかしちゃったら、お父さんたちには悪いけど、一緒に死のうって決めてたのよ。だって、わかってあげられないんだもの・・・・・・(p. 203
小林はこの本を持って性犯罪被害者としてカミングアウトした。カミングアウトと言う用語は英語のcoming out of the closetに由来する。この言葉は系譜学的に性的少数者が使い始めた用語で、クローゼット(押入れ)の中に閉じ込められた状態から抜け出し、自分たちは性的少数者であることを公表することで差別の実態を可視化させ、社会にインパクトを与えること意味する。

小林も性犯罪被害者がクローゼットで泣き寝入りさせられている状態、唖構造muted structureから他力を借りつつも自力で抜け出し、性犯罪被害者であることをカミングアウトした。この想像するに悩みに悩んだ上での決断を讃えない訳にはいかないし、日本社会に大きくはないかも知れないけれど何らかのインパクトを与えたはずだ。こういう勇気あるミクロな行為の1つ1つが不均衡なマクロな社会を均衡化していくのである。

2013年6月16日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【12】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

つくるくんは私だ。

と、言ったら言い過ぎだろうか。36歳の電車好きのオトコノコ、地方の政令都市出身で、大学進学のために上京。大学時代には友だちがおらず、語学好き。ここに自分を重ね合わさない訳がない。

しかし長薗安浩は「ベストセラー解読」『週刊朝日』で本書を「解読」し、こう書く。「再生のために『訪ねて尋ねる』というアプローチで過去と対峙する主人公とは違う方法で、はからずも自分の過去と向きあった」(http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013042500010.html)。つまり、主人公に自分を重ねあわせたのは自分だけではなかったのである。 常々、作家の役割は個別の事象を描くことで普遍に近づくことだと思うが、ということは村上は今回見事に普遍に近づいたのだ。

今年5月6日、村上春樹は久しぶりに日本で講演を行った。京都大学で行われたこの講演後、公開インタビュー「魂を観る、魂を書く」に村上は応じた。村上は、当初は短編になるはずだったものが長編になったのが同書だ、と言う。読者はこの長編の方を読める幸運を手にした。「こういう風に人をきちんと書くのは初めてのことだった。人間と人間のつながりに関心と共感を持った」(朝日新聞国際版、2013年5月8日) 。長薗の言うように、僕もはからずも自分の過去と向き合うはめになり、それは人間と人間のつながりを深く考える稀有な機会となった。

語用論的観点から同書を眺めてみると、まず気づくのは比喩が多いということ。しかも村上が生み出したであろう独自の比喩が非常に多い。同書の読後の感想として「文章がくどい」と言っている人がいたが、それは比喩が多すぎるせいかも知れない。『文學界』6月号の特集「村上春樹をめぐる冒険2013【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】」で沼野充義が「色彩、比喩、ノスタルジア」を書いているが、本を読んだ人なら、沼野がタイトルで「色彩」の後に「比喩」を持ってきたことに首肯しない人はいないだろう。

例を挙げよう。

「ふくらはぎあは釉薬が塗られた陶器のように白くつるりとしていた」(p. 64)
「胸の奥にやるせない息苦しさを覚えた。小さな堅い雲の塊を知らないうちに吸い込んでしまったようだった」(p. 64)
「言葉は出てこなかった。舌が膨らんでもつれ、口の中を塞いでいるような感触があった」(p. 175)
「過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた」(p. 307)
「つくるは東京で規則正しく、もの静かに生活を送った。国を追われた亡命者が異郷で、周囲に波風を立てないように、面倒を起こさないように、滞在許可証を取り上げられないように、注意深く暮らすみたいに」(p. 357)

しかし冗長で「くどく」思えるこのような比喩群も、村上が描きたいことに至るまでの「前戯」だと思えば次第に慣れてくる。いや、「前戯」をそのものを村上は描きたいのかも知れない。 

次に気づくのは英語が透けてみえる日本語だということ。村上作品の英語への翻訳者は数人いるが、誰もがある意味で翻訳しやすい、と思っているに違いない。「米国文化への愛感じる 村上春樹作品の翻訳者に聞く」(朝日新聞国際版、2013年5月15日)には『1Q84』を共訳したフィリップ・ガブリエルとジェイ・ルービンが登場しているが、記事のタイトルにあるとおり、村上の作品は米国文化への愛を感じさせるのだが、英語が透けてみえることもその一因だろう。

再び例を挙げよう。

「僕らの間に生じた特別なケミストリーを大事に護っていくこと」(p. 21)
「今それについて語るには疲れすぎている」(p. 79)
「じゃあ、幸運を祈っている」(p. 237)
「ピッツア」(p. 259)
「ウェイクアップ・コール」(p. 263)
「何が君をここまで運んできたのか」(pp. 299-300)
「早起きの鳥はたくさんの虫を捕まえることができる」(p. 346)

試に英語にしてみると:
"That we are going to carefully protect the special chemistry produced among us."
"I'm too tired to talk about it now."
"So, I wish you good luck."
"Pizza"(ピザではない)
"Wake-up call"(モーニング・コールではないのだ)
"What brought you here?"
"An early bird catches the worm."(英語の諺では「たくさん」とは入ってないが)

そしてこれを証明するかのように、現代の秀逸な米文学翻訳者である柴田元幸との対談で村上はこう告白する。「僕も最初の小説を書いたときは、とりあえず英語で書いて、それを全部日本語に訳し直して日本語にしたんです」(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』、p. 235) 。
 他に気づかされるのは人生の警句が多いこと。 村上は上述の公開インタビューで「魂のネットワークみたいなものを作りたい。人は魂の中に物語を持つ。それを、本当の物語にするには相対化が必要で、そのモデルを提供するのが小説家の仕事」(朝日新聞国際版、2013年5月8日)と喝破するが、警句は究極的にはそのような魂のネットワークを構築する一助となるだろう。

「自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります」(p. 66)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p. 307)
「身体の中心近くに冷たく硬いものが―年間を通して溶けることのない厳しい凍土の芯のようなものが―あることにふと気づいた。それが胸の痛みと息苦しさを生み出しているのだ。……それは彼がしっかり感じなくてはならないものなのだ。その冷ややかな芯を、自分はこれから少しずつ溶かしていかなくてはならない。時間はかかるかもしれない。しかしそれが彼のやらなくてはならないことだった。そしてその凍土を溶かすために、つくるは他の誰かの温かみを必要としていた。彼自身の体温だけでは十分ではない」(pp. 329-330)
「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」(p. 370)

どうだろうか。このような比喩、翻訳調、警句のレトリックが本書を奥深く、稀なものにしている。

一方、フェミニズム批評家の斎藤美奈子は本書を酷評する(http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2013042500012.html)。「にしても『1Q84』はDVへの報復で今度はレイプと妊娠か。すべてお膳立てしてつくるを過去に旅立たせるのは沙羅、彼の未来に向けて強く背中を押すのは恵理。そして毎度おなじみのセックス描写。女の役割が男の支援者か性的対象だっていうあたりが古くさい」。しかしこれは、斎藤の言葉を借りれば「浅読み」というものである。今回は一組の男女の閉じられた単数の〈対(つい)〉を超えた複数の男女の性愛、そして異性愛と同性愛、さらにはホモソーシャルとホモセクシュアルが交差する極めて「クイア」な仕上がりになっている。斎藤の評は一面的、と言わざるを得ない。

ところで、既出の村上翻訳者であるガブリエル氏は、本書について「『ノルウェイの森』のようなリアリズムの小説。これまでと比べてより深刻で、悲観的なように見えるが、究極的には希望に満ちている」と評す。ルービン氏も「『ノルウェイの森』を想起させ、非常に興味深い」と述べる。今の私のベッドタイムリーディングはルービン訳の『ノルウェイの森』英語版である。

ベッドタイムリーディングと言えば、読み始めた際には本書を寝る前のベッドタイムリーディング用にしていたが、あまりに面白いのでカフェで読んでみたらなぜかあまり面白く感じられなかった。寝る前の意識と無意識が、そして現在と過去が邂逅するわずか時間にのみ読む本なのかもしれない。

2013年5月28日火曜日

現役通訳者が書評をしたら【11】『図説 英語史入門』

『図説 英語史入門』(大修館書店)は敬愛する英語史の先生が共著者となっており、それがご縁で今回、拝読させてもらった。

第1章の序章に続く第2章が「英語の始まり―古英語期」、第3章が「中英語期」、第4章が「近代英語期」、そして最終章の第5章が「19世紀から現代英語期へ」となっている。目次を一瞥してお分かりのように、誕生から今日に至るまでの英語の生い立ちとその変遷が順を追って理解できるように構成されている。

英単語の意味や発音がどのように変遷してきたのか、英語が「英語」になる過程でどのような歴史的事象が関与していたのか、については本書をみていただければいいのだが、読みながら気づいたことは「英語」といっても1つの英語があるわけではない、ということ。発音1つをとってみても、階級、地域、ジェンダー、そして各時代で異なる発音が採用されているのみならず、国を超えてみれば、発音が異なるのみならず、その言葉自体が違う言葉で置き換えられていることさえある。

ということは、翻って、純国産の日本人が英語を話す際、発音としては日本語英語でもいい、ということになる。発音にキャノン(正典)がないのであれば、極論を言えば、似たような音を出してさえいればいいのだ。これを「脱ネイティブ神話」と呼ぼう。ネイティブ神話の脱構築だ。そして日本語英語を使い続けることで聴衆に日本語英語に慣れてもらえれば、日本語英語が次第に確立し、発音を気にしなくても日本語英語で自由に話せば、あとは相手が勝手に理解してくれる。まるでインド英語のように。

1冊の英語史入門からこんな洞察を得られるとは思ってなかった。思いがけないギフト(贈り物)、棚から牡丹餅、である。

さぁ、書物を捨てよ、日本語英語を使おう。

2013年5月20日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【10】『 もたない男』



『もたない男』―『モテない男』ではない―を読んだ。『じみへん』などで知られる漫画家・中崎タツヤの著である。捨てたくてたまらない作者の部屋にはモノがほとんどなく、客人は「部屋の内見に来たようだ」と宣う。

一例を挙げると、固定電話は使わないから捨てる、遊んでしまうからパソコンも捨てる……。ここまでは「常識」の範囲内だが、本棚に合わせて本をカットし(決して逆ではない)、インクが減るたびにボールペン本体を短くしていく、となると「常識」の範囲を超えると思う人が多いだろう。

ではなぜこの本を手に取ったのか。断捨離ブームに影響されたのか、僕もモノを捨てるのが大好き、できるのであればモノは持ちたくない。そしてその範囲は「常識」をやや超えるように思う。たとえばカロリーメートを食べるとして、ブロック4つのうち1つを食べたとしよう。そこで残り3つのブロックが残っていても箱を捨てたい衝動に駆られ、実際に捨ててしまう。

この意味で、『もたない男』を手に取ったのは必然だった。

別の見方をすれば、物欲が少ない「さとり世代」のはしり(学部を卒業した年は第一次就職超氷河期で、バブルのおこぼれには預かっていないのが証左)なのかも知れないが、欲がない訳でなはない。「捨てたいという欲」が強いのだ。

ではなぜモノを捨てたいのか?中崎は「仕事に集中したいから」という。が、そのウラにある無意識の欲望とは?

ちょうどそんなとき、ジャン=ジャック・ルセルクル『言葉の暴力「よけいなもの」の言語学』(岸正樹訳)を手にした。同書でルセルクルは"the remainder"を「言語学の分野でフロイトの『無意識』に相当するもの」と述べる。言葉遊びや隠喩、洒落、誤用といった従来の言語学が"the remainder"(残余物、余計なもの)として過小評価してきた言葉の無意識的現象を分析し、言語学の脱構築をはかる。

これに基づけば、モノを捨てたい人にとってモノは"the remainder"なのであり、「無意識」なのだ。無意識は、人が意識できないにも関わらず(?)人を支配するモノ。ワレワレはこの得体の知れない支配者を取り除きたいのだ。言い換えれば、無意識を支配したいという欲望、権力の表れなのである。しかし実際にそれができない「もたない男」「もたない女」は、モノを捨てるという反復的強迫行為で代用する。中崎が強迫神経症のようにみえるのもこれに由来している。

「もたない男」「もたない女」はいつでも引っ越しができる旅人、モノを持ちたいという欲望から解放されたエコな自由人、と言えば聞こえがいいが、実は欲望と権力にとりつかれた不自由な男女なのである。

そういえば、旅人といえばスナフキン。そのスナフキンがこんなことを言っている(http://d.hatena.ne.jp/suzushige/20050309/p2)。

- ぼくは、あっちでくらしたり、こっちでくらしたりさ。今日はちょうどここにいただけで、明日はまたどこかへいくよ。テントでくらすって、いいものだぜ。きみたちは、どこかへ行くとちゅうかい?
- 自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもね。
- なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんを持ち歩くよりも、ずっと楽しいね。
- それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。すててしまえよ。小さなパンケーキ焼きの道具も。ぼくたちには、用のなくなった道具だもの。
- もちものをふやすということは、ほんとにおそろしいことですね。

中学時代の僕の仇名―それはスナフキンだった。

2013年5月5日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【9】『快楽上等!』

大学院へ「入院」していたころ、フーコーの『性の歴史 第1巻』をよく読んだ。正確には4度。3度は日本語で、1度は英語で。英語で読 んだのは自慢するためではなく(自慢にならないかも知れないが)、博士論文を書く資格をもらう試験で読まなければならなかったからである。

このフーコーの本は初めて文系で取り組まれた「性」についての硬派な本、と言ってよい。それまでは生物学、医学などの理系分野で扱われるのみだった「性」が、文系という学問の対象にもなる、「性」は歴史的に普遍ではなかった、ということが読んでみてよくわかる。フーコーはこう言った、近代社会は性についての言説が抑圧された(「抑圧仮説」)のではなく、言説が増大しそれが統制された、と。目から鱗である。

そんな統制に逆らうように、下ネタ学者の上野千鶴子(元トーダイの先生だ)と作曲家・湯山昭の娘である湯山玲子の対談集『快楽上等!』(幻冬舎)が上梓された。美魔女、女の女装戦略、マグロ化する男、リア充女、カツマー、女性の自慰、アンチ挿入主義、最良のセックス、加齢とセクシュアリティ、おひとりさま……と、ジェンダー・セクシュアリティ・ネタが満載。

こういうネタに嫌悪感を抱く人もいるだろう。 『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』(原書房)を著したレイチェル・ハーツは、セックスは私たちの動物性を思い出させ、そして動物性は死につながるから嫌悪感を抱く、と述べる。 でも『快楽上等!』の帯にはこうある、「人生のキモチよさをあなたはまだ知らない」。私たちは快楽について何も知らないまま、嫌悪感だけを抱かさせられて死に向かっているのかも知れない。

いずれにしても「性」について「こんな見方があったのか」と気づかされるばかりの『快楽上等!』は、息もつかせない展開・対談で最初から最後までいっきに読める。

一つ気になったのは、たとえば「3.11以前と3.11以降の女のサバイバル術」のように、3.11以前/3.11以降という二項対立をつくり出していること。3.11によって何が変わったのか、何が変わらなかったのかについては精査が必要がある。被災地の1つである仙台出身者の僕にとってこれは切実は課題である。

『快楽上等!』、この本の書評の中で思い出すのは、その筆力に前々から目をつけていたキョンキョンが読売新聞に寄稿した書評。
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生き方の受験勉強
 まもなく47歳になる独り身の私は、これから先の人生をどう生きたらいいのか、もちろん考える。
 今のうちにたくさん働いて将来はみんなで一棟のマンションを買って助け合いながら暮らそうなんてことをよく女友達と冗談のように語り合っている。本当は結構本気だったりする。いつの間に私の将来から恋愛や結婚、即ち男の人の存在が消えてしまったのだろう。
 上野千鶴子さん1948年 生まれの社会学者。湯山玲子さん1960年生まれの著述家。ひと回り年齢の離れた女2人の対話は3・11から始まり、恋愛、結婚、快楽、加齢など私にとっ て興味津々の議題ばかり。それらの議題について思った以上に赤裸々に語り合う頼もしい先輩方。2人の会話に参加している気分で、そういう事だったのかと何度も頷(うなず)き、何度も痛い所を突かれ、最終的には頭の中がスカッとした。
 恋愛の先にはいつも結婚や 出産や家族という未来が見えていた。長い間その思いに捉われて生きていた。離婚を経験した私でもついこの間までそんな思いに揺れていた。やっと解放されたというのに今度はどこに向かっていいのか迷子のような気分だった。その原因がはっきりしたし、上野さんのいう「選択縁」「最後の秘境は他人」などの言葉に答えがあるのだと思った。仕事をしながら生きる女としての矜持(きょうじ)や美意識、何よりこの先を生きてゆくパワーが心にムクムク沸き上がるような気持ちになれた。人と話をするのは大切な事だと思う。自分ひとりじゃ辿(たど)り着かない方向に行き着くことが出来るのが会話なのだと思う。話す相手が自分よりも知識や経験が豊富だとより遠くの場所まで辿り着く事が出来る。実際、私は本を読んだだけなのだけれど結構遠くまで気持ちよく流されました。
 生まれて初めて教科書や参考書以外の本にラインマーカーを引きまくった。私の未来。新しい世界、新しい生き方への受験勉強をしているみたいで楽しかった。晴れて合格しますように。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130204-OYT8T00883.htm
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『快楽上等!』には既述のように下(シモ)半身ネタ満載なのだが、さすが元アイドルのキョンキョン、その辺りは「快楽」の一言で片づけてしまっている。が、いずれにしても、おそらく上野さんと湯山さんが一番読んで欲しかった層にキョンキョンがいることもあって、本書のメッセージはキョンキョンの心の襞に触れたようだ。

もしキョンキョンに会う機会があれば、彼女が本書から学んだ「新しい世界、新しい生き方」について聞いてみたい。僕には「快楽」についてもそっと話してくれるだろうか。

現役通訳者が書評をしたら【8】『ゲイ・スタディーズ』

「ゲイとは?」。そう聞かれて「陽気なという意味だろ?」と答えたアナタは英語の達人。同性愛者たちは、それまで自分たちのラベルとして与えられてきた「ホモhomo」という蔑称に対抗するため、「陽気な」を意味する「ゲイgay」という言葉を自分たちに宛がい、集団としてのアイデンティティを構築することでホモフォビア(同性愛嫌悪)に抵抗する手段としてきた。

ニューヨークのBookOffでみつけて購入した『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也)は、ゲイ・アイデンティティ、ホモフォビアの構造などに歴史的、理論的、実践的に取り組んだ労作。彼らが所属する(していた?)「動くゲイとレズビアンの会(略称アカー)」で2年間にわたって開催された「アイデンティティ研究会」での議論に基づいて執筆されたという本書は、同会で繰り広げられたであろう熱い議論が紙面から伝わってくる。

アカーはは1990年2月に東京都立「府中青年の家」(現在は閉鎖)を宿泊利用した際、同性愛者の団体であるという理由だけで他の宿泊利用の団体から嫌がらせを受けた。そのためアカーは裁判に持ち込み、一審での完全勝訴に続き、1997年の東京高裁でも全面勝訴を勝ち取った。

この1997年に出版されたのが同書である。この本は3人の著者によって執筆されていることもあり、内容が多岐に渡るが、一貫しているのは「異性愛者/同性愛者の二項対立を疑い続けよう」というメッセージである。二項対立が存在する場合―たとえば男性/女性、人間/自然、そしてもちろん異性愛者/同性愛者―、この左右の項は決して平場の関係にはなく、逆に権力関係にある。言い換えれば、男性=女性、人間=自然、異性愛者=同性愛者、ではなく、男性>女性、人間>自然、異性愛者>同性愛者なのだ。

そして左側の項―男性、人間、異性愛者―は自分たちのアイデンティティを顧み、悩む必要はない。なぜなら右側の項―女性、自然、同性愛者―というカテゴリーを構築し、差別することで成り立っているからだ。したがって押し付けられたアイデンティティに悩まなければならないのは左側の項、被差別者たちとなる。

しかしここで一歩引いてこの問題をみてみると、左側の項がなければ右側の項のアイデンティティもなくなってしまうのではないのか、ということに気づく。女性がいなければ男性もいないのでは?同性愛者がいなければ、異性愛者もいないのでは?こんなワクワクする、目鱗の問いかけと議論が本書を通じて行われている。

What's your sexuality?

2013年5月2日木曜日

現役通訳者が書評をしたら【7】『日本人を<半分>降りる』

異文化に住む<日本人>にとって日本を相対化することは常態となる。だから中島義道の『日本人を<半分>降りる』(ちくま文庫)をニューヨークのBookOff手にとったのも偶然ではなく必然だった。
この神経症的な哲学者は非常に音に敏感である。車内放送がうるさいバスの会社に苦情を述べ、選挙カーにも文句を言い、駅から勤務校に向かう際には静かな道を選んで通勤する。私も音に敏感(五月蠅い)なので気持ちはよくわかるが、そこまでする勇気と体力時間は残念ながらない。
それよりも印象的だったのは<自然>についての記述。日本人の季節感は「言葉を介した観念的定型的な季節感なのだ」(p. 162)と喝破する。「『師走』という言葉の雰囲気のうちに季節感を感じとる。そうして感じとった言葉を逆に周囲の自然に投入して、そこに定型的な(お墨付きの)季節感を読み込んで、しみじみと情感に浸るのである」(p. 162)。
 
中島は例として明治政府が推進した小学唱歌をあげる。そこに登場する「さくら」や「紅葉」が描き出す季節感を<われわれ>は共有「しなければならない」のだ。「そうでないと、ほんとうの日本人にはなれないのだ!」(p. 162)。
 
この「しなければならない」という義務感を中島は権力論につなげる。日本人の季節感は結局権威づけられたものであり、したがって日本では自然と権力が融合してしまっている。自然は「権力を介した自然」(p. 164)なのだ。そしてその自然を無批判に受け入れる日本人は、権力も「自然に」受け入れる。ここに権力に従順な国民が誕生し、車内放送にも選挙カーも丸ごと受け入れる国家が誕生する。
 
ウィーンに住んだことがある中島は、もちろん文化相対的な視点を忘れるはずはない。上述の事柄は「ある程度どの文化にも言える」p. 162。しかし「とりわけわが国の文化はこうした定型的な感受性をひたすら熱心に育成してきたように思われる」(p. 162)のだ。
 
もし<日本人>である自分が感じる<自然>が「権力を介した自然」であり、「『本当の』自然」でないとしたら?もしそれが正しいのであれば、この体に染みついた「権力を介した自然」感を剥ぎ取り、「『本当の』自然」を感じることは可能なのか?

中島の突きつける身も蓋もない事実を前に、僕はただ立ち尽くす。

2013年4月14日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【6】『もてない男―恋愛論を超えて』

最近、寝る前に読んでいた『もてない男―恋愛論を超えて』(小谷野敦、ちくま新書)。ボクがもてないから?そう、と言っておこう。それを認めないほどプライドは高くなく、また問題があるから知的好奇心も動かされる、といったところ。

ちなみに同時期に『もたない男』 (中崎タツヤ、飛鳥新社)も読んが、1字違っても内容は全く異なる。こちらはなるべく持ちモノを極限まで減らしたいちょっと神経症的neuroticな漫画家の話。

脇道にそれたが、『もてない男』で印象に残ったのは、恋愛論の部分ではなかった:

「孤独」をちゃんと書ける作家がじつに少ない。文学史的に言えば、「孤独」を主題にした最初の名作はルソーの『孤独な散歩者の夢想』だろうし、それに続くのがドストエフスキーの『地下室の手記』だろう。(p. 121)

上記に引用した部分が引っかかったのは、おそらく同書を読んでいた時期のある晩、敬愛する友人と長電話をしていて「皇居のように寂しい人間だ」と言われたからだろう。

「皇居のように」と聞いてロラン・バルトの『表徴の帝国』を思い出した方、正解である。バルトは日本に数カ月滞在し、その後独自の日本論を同書に展開した。彼は、日本には、西洋との異なり、シニフィアン(意味)を持たないシニフィエ(記号)が存在する、と喝破した。1つの例が皇居であり、東京という意味の過剰な大都市の中心に森しかない空虚な皇居という空間=記号が存在している。そう、皇居は空虚な記号なのだ。 

蛇足で言うまでもないが、書評という行為は「客観的」なものでは決してなく、書評者自体を丸裸にする極めて「主観的」な行為であるが、それは上を読んでもらってもわかるだろう。

孤独と言ってマルケスの『百年の孤独』を思い出すあなたは正統派。私はなぜか元ポーランド文学者で詩人伊藤比呂美の元夫でもある西成彦の「1500年の孤独」という示唆的な短文を思い出す:

「1500年の孤独」
「日本書記」によると、丹後の国の浦島子が消えた年は西暦に直すと四七七年、竜宮から戻った年は八二五年、要するに大陸から異文化が怒濤のように押し 寄せてきた三五〇年近くのあいだ、浦島は郷里を離れていたことになる。この古い伝説が、現代にも通用する新鮮さを秘めているとすれば、それはこの物語が ユートピア願望を語ると同時に、カルチャーショックがもたらすトラウマの大きさにも重さをおいた話だからだ。西洋にも「オデュッセイア」という不の古典が あるが、その主人公が英雄の典型であるのに対して、浦島は時代の波におしつぶされて無残な死を遂げる悲業のアンチヒーローである。さまよえる現代人は、英雄物語の主人公たる可能性を秘めながら(桃太郎がこの典型だ)、もう一方では不気味な死のパフォーマンスを演じてみせる旅芸人でもある。浦島太郎の孤独 を、千五百年後の私たちも追体験できる。文学の醍醐味のひとつだ。
(http://research-db.ritsumei.ac.jp/Profiles/38/0003731/profile.html)

桃太郎と孤独--何という組み合わせだろう。ウルトラC級だが、そこを結び付けられる西は慧眼を持つ。また現代人は英雄であり旅芸人でもありうる両義性をもった存在である、というのも異議なし。

小谷野の本に戻ると、彼の引用に登場する孤独を文学し哲学した男ヘンリー・デイビッド・ソロー。彼を研究している友人も言っていたけれど、もっと「孤独」という概念は研究されるべきだと思う。桃太郎が苦しんだであろう、そしてソローが早くから気づいていた孤独という問題、これを語る孤独論の時代がようやく来たのだ。このグローバルな孤独の時代に。

現役通訳者が書評をしたら【5】『リキッド・モダニティ 液状化する社会』



友人がバウマン研究をしていることもあり、『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(ジークムント・バウマン、大月書店)を読んだ。

堅牢なものの時代は抑圧的ではあったが安定していた、と述べるバウマンは、単に過去を否定して未来を理想化する人たちとは違って、よりバランスのとれた目線をもっているように思える。

キャンプ場の例が面白い。現代社会では、訪れたキャンプ場でサービスが悪くても次から行かなくなるだけで、キャンプ場管理者たちの哲学までは問わない、これが固形状のものがない常に流動的な液状化された社会である。

そういった近代論と同時に、本書はアイデンティティ論でもある。バウマンはこう言う。「アイデンティティが固定、確立してみえるのは、それに外側から一瞬眼を向けたときだけだろう。伝記的経験の内面から眺めれば、アイデンティティは脆弱で、傷つきやすく、流動性を暴露する力、形あるものすべてを押し流す破壊的逆流によって、ボロボロにされているようにみえるはずだ(p. 108)。僕も博士論文で「アイデンティティは今ここで立ち現れるもの」と定義したが、これはバウマンの定義と重なる。そして「形あるものすべてを押し流す破壊的逆流」。僕たちはこの逆流によってボロボロになってしまっていることに気づいているのだろうか。

またバウマンは「現実のアイデンティティは空想、夢想という接着剤でのりづけされ、なんとかかたちを保っている」(p. 108)とも言う。言い換えれば、人間が生きている上で欠かせないアイデンティティは空想、夢想によって成立しており、それがなくなってしまえばきっと人は精神的病を抱えるのだろう。

もう1つ面白かった言明はこれ。「プロクラスティネイトするとは、ものごとの存在成立の成立を遅らせ、延期し、後回しにすることによって操作しようとすることであり、その存在成立の緊急性を先へ延ばすことによって操ろうとすること」(p. 202)。

プロクラスティネイト(=土壇場までやらない、土壇場になって初めてやる)は単にその人の怠惰さの表れだと考えられてきたが、バウマンにかかればそれは操作する権力に等しい、となる。さすが第一級の社会学者だ。

この解釈が思い起こさせるのがデリダの「差延」の概念。差異は時間とともに揺らぐ液状状態にあり、固形の状態になない。したがって常に(決定は)延期され続け、出発点、到達点はない、というものだ。現代思想家たちは僕(たち)のような凡人より一歩も二歩も先を考えているが、だからこそ逆説的に彼/女たちの着眼点はみんな似ているように思える。

現役通訳者が書評をしたら【4】『リスクとリターンで考えると、人生はシンプルになる!』



もはや情報に国境はなく、アメリカにいても勝間和代に影響されたか、『リスクとリターンで考えると、人生はシンプルになる!』(山崎元、ダイヤモンド社)を読んでみた。

読後の記憶に一番残った文章は「資格などを取ることで、自分に対する評価が自然に向上し、人間関係までうまくいくと思って勉強に逃避する人をよく見かけますが、これは有効な解決手段にはなりません」「他人に(何かを)提供できて、他人の役に立てば十分なのです」(p. 82)。

英語ではBook-smartな人(頭でっかち)とStreet-smartな人(現場派)と言い、前者の評価は低いが、上記の文章はまさにそれを言い換えたもの、と言えるだろう。そして自己再帰的self-reflecxiveになって自己反省self-reflectionしてみる。

また、「他人の役に立てば十分」というのは、大げさかも知れないが人によっては人生の指針ともなりうる名言であると思う。そう、人生で少しでも他者の役に立っていれば十分で、幸せなことなのである。

本書全体を要約すると「決断は投資と同じ、だからリスクとリターンの2つの変数で考えればよい」、「金、時間、自由は等価交換できる」、これに尽きる。僕は、人間の行動をすべて経済学的に考えてしまうことを「経済学還元主義」と揶揄するが、複雑なものを複雑に考えずに敢えてシンプルにしてしまいたい(フロイト流に言えば)神経症的な人にはもってこいの本だろう、と言ったら言い過ぎか。