2013年7月8日月曜日

現役通訳者が書評をしたら【14】『秘密』

弟が東野圭吾にはまっているのを数年前に実家で横目で見ていた。それ以降、気になっていたこの人気の小説家。今回、彼の『秘密』をガレージ・セール(アメリカの象徴だ)でたまたま手にし、読み始めたらページを繰る手は只々止まらなかった。
120回直木三十五賞候補、第20回吉川英治文学新人賞候補となっており、第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しているこの作品は、限りなくリアルな空想小説である。
物語は妻と娘がスキー旅行に 出掛けた場面から始まる。乗っていたバスが崖から転落し、娘・藻奈美だけが奇跡的に助かる、しかしその娘の体に宿っていたのは死んだはずの妻・直子だった。 主人公で直子の夫・平介はその秘密を隠し通しながら、藻奈美であり直子である存在と奇妙な生活を始める。平介は相変わらずのサラリーマン生活を続けるが、 直子は藻奈美として「生まれ変わった」機会を利用し、何の特色もなく過ごしていた直子時代を反省、中学受験、高校受験を経て、果ては医学部を目指す。

し かしこの小説は、「生まれ変わった」機会を手にした人物が成長していく、というビルドゥングスロマン(教養小説)の変種として読み解くのは正しくない。正 しいのは「性」という変数をもって読む読み方である。「性」をめぐって展開するミステリー、そして「性」自体がミステリー、という二重の意味でこの本は 「性のミステリー」なのである。詳述しよう。

物 語は「性」を軸に展開する。直子の肉体を失ってしまった平介は藻奈美の担任に惚れ、写真を撮ってそれをオカズに自慰行為をする。しかしそれ以上に手出しは しない。北海道出張中にソープランドを試すことはあったが、これもうまくいかなかい(=いけない)。東野は平介にこう言わせる。「勃起すらしない。つまり 男であって男ではない。」(p. 261)。「勃起が男であることの証明である」というこの命題=クリシェ(陳腐な言葉)には辟易するが、それは直子に対する愛情の裏返しでもある。
一方、藻奈美としての直子は 高校で平介が関与しない独自の世界をつくり始め、テニス部に入部、先輩に淡い恋心を抱き、平介はそれに嫉妬しストーカーと化す。しかし直子の言い知れない 苦しみ、つまり平介以外には打ち明けられない「秘密」(本書のタイトルだ)を守り続けなければならない直子の苦しみを平介は次第に理解し、態度を改め始め ると、直子という心が現れる時間は徐々に減り、代わりに姿を消していた藻奈美の心が交代で現れ始める。二重人格の状態だ。直子と藻奈美はお互いが存在して いることを認知しているという意味で交代性の二重人格(エレンベルガー『無意識の発見』) である。そして藻奈美が顔を出している際に困らないよう、直子は藻奈美宛に自分が過去にそしてその日に経験したことを手紙に認め始めるが、ここでドストエ フスキーの『分身』や謡曲の『井筒』、さらには狐憑きを思い出さない訳にはいかない(小林敏明『精神病理からみる現代思想』)。
しかし解説で推理小説家の皆川博子が書くように「二人(註:平介と直子)とも、ストイックなまでに互いに誠実」(p. 451)な関係を続ける。そして皆川はこう問いを投げかける。「夫は、娘の肉体を持った妻を抱けるか。」(p. 451)。答えはノー。平介と直子は何度か性交渉を試みるが、直子が自分の娘の姿をしているだけにうまくいかない(=いけない)。文化人類学者たちが見つけ出した近親相姦のコードはここまで強いのだ。そしてセクシュアリティは身体的なものではなく両耳の間(=脳)で発生する。

「恋愛相手の選択は見かけではない、中身である」という人がいる。このデカルト由来の心身二元論に基づいた言説は本当なのだろうか。もし本当だったら平介は直子の心を持った藻奈美に萌えられたのではないか。体は藻奈美で心は直子であるこの少女は藻奈美なのか直子なのか。平介は「目に見えるものだけが悲しみではない」(p. 409)と別の文脈で述べるが、実際には目に見えるものが意識を支配してしまうのか。数十万部を突破した『人は見た目が9割』(竹内一郎)はフロックではなかったのか。巷で言う「心がつながった」性行為というのは嘘で、「体だけの関係」でしかないのか。「性」とは、そして「心」「体」とは?

読者は読後にこの解けない問いとともに放り出される。そして親密圏の他者(=恋愛相手)を見るたびに、その体には別な誰かが宿っているのかも知れない、と空想するようになる。この意味で、本書は「限りなくリアルに近い空想小説」なのだ。

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