2014年1月19日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【18】『国家とは何か』

久々に重厚な本を読んだ。物理的に、ではなく内容が厚い、という意味においてである。萱野稔人・著『国家とはなにか』(2005年、以文社)である。

この本はわれわれの常識を転覆させる転覆的な本である。たとえば本書の通奏低音となっているテーマは「暴力が国家を規定する」。通常、われわれは文化や国境、人が国家を規定すると考えがちだが、萱野はまずその否定から本書を書き進めていく。

クィア理論家のジュディス・バトラーは「ジェンダーがセックスを規定する」と喝破し物議を醸したが、同様に「暴力が国家を規定する」という公理もウルトラC級の転覆技である。

国家が成立する際、暴力は組織化される。そこで暴力と権力のあいだには相乗的な関係が生まれる。そして国家は、一方で暴力を通じて権力を実践し、他方で権力を通じて暴力を実践する、という複合体となる(p. 74)。だから「国家は税を徴収するから暴力的である」のではなく、「国家は暴力的であるから民から税を徴収する」のである。

税の徴収は富の我有化と結びつく。萱野は言う、「国家を思考するためには[中略]富の我有化を可能にする暴力の社会的機能を問うべきなのだ」(p. 98)と。そしてドゥルーズ=ガタリに依拠しながら、マルクス流の「富の蓄積が国家を生んだ」という言説を転覆させ、「国家(という暴力組織)が富を蓄積する」と述べる。「国家の基礎は、富の我有化と暴力の蓄積との循環的な運動のなかにこそ見いだされなくてはならない」(p. 98)とする。

「暴力」と「権力」との区別を措定する際、萱野はフーコー流の暴力の定義に依拠する。機能的な定義だからである。「暴力」を考察の対象として取り上げるべきだ、と主張したアーレントについて萱野は「全面的に同意する。この指摘は、本書全体におけるわれわれの考察のモチーフをあらわしているといっても過言ではない」(p. 67)とまで言うが、アーレント流の「暴力」と「権力」の差異化については主観的・規範的・現象学的であるとして棄却する。

従来の国民国家論に物足りなかったのは、天下国家=公的領域のオハナシに終始し、私的領域に踏み込むものが少なかったからだ。しかし萱野は私的領域、つまり家族の領域にまでも踏み込んでこう言う。「国民国家においては、国家を家族になぞらえる家族国家観がしばしば提示される。それはまさに、国家が生存のための経済的な単位のひとつを政治化し、横領した姿にほかならない」(p. 209)。家族国家観は「国家が住民たちをみずからのもとに動員するためのひとつの枠組み」(p. 209)なのである。

また萱野は国家と資本主義との関係性も考察する。メディアで喧しくグローバリゼーションが取り上げられるようになった今、その関係性は誰もが気になるところだろう。デゥルーズ=ガタリは「資本主義は脱コード化された一般公理系」だと言明したが、資本主義は国家を廃絶しない、つまり資本主義が発達した結果、国家の壁が低くなり、最終的に国家がなくなると考えることはできない、と萱野は述べる。私的に換言すればグローバル資本主義によって国家は衰退しないのだ。そしてドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に依拠しながら、(1)資本主義が発達した場合、国家は自己の形態を変えて富を我有化する方法を変えるのみ(2)公理系としての資本主義は現実モデルの存在が必要(3)資本主義は自ら成長するためにも国家への依存が必要 と説明する(pp. 271-273)。

またわれわれが誤解しがちな「国民国家=ナショナリズム」の図式も萱野はうまく否定してみせる。萱野はアールネスト・ゲルナーの定義に拠りつつ、まずナショナリズムをこう定義し直す。「ナショナリズムとは、暴力の集団的な実践を民族的な原理にもとづかせようとする政治的主張である」(p. 194)。そして国民国家の構築にはナショナリズムが不可欠だといいながら、ナショナリズムは国民国家のレベル(ナショナルなレベル)よりも下位のローカルなレベルでも上位のトランスナショナルなレベルでも機能しており、さらには国民国家批判の際にさえ呼び出されることもあり、決して「国民国家=ナショナリズム」ではない。

したがってナショナリズムを分析するのであれば国民的なアイデンティティを組み立てる同一化のメカニズムに関わる分析でなければならないし、加えてそのようなアイデンティティは特定の人々にとっては必要なものでもあるから、ナショナリズムに対抗するためにはそのナショナリズムの「想像的な」(ベネディクト・アンダーソン)コンテンツを書き換えることになる(p. 197)。

萱野氏は最近、教職の傍らでニュース番組のコメンテータなど、メディアで活躍されている。メディアに入り込むことでその内側から様々な「暴力」の解体を目論んでいるのでは、と睨んでいる。しかし氏は本書のような論を展開できる力量を持っており、「余技」に走らずにさらに萱野流・国民国家論を進めてもらいたい、と思うのは欲張りなことだろうか。