発売当時、新宿東口の紀伊國屋書店でみかけてずっと気になっていた小林美佳の『性犯罪被害にあうということ』(朝日新聞出版、2008年)。マンハッタンのブックオフでたまたまみかけて今回、ようやく読むことができた。ジェンダー・セクシュアリティ研究を生業としていた僕にとって読まなければならない本だった。
どんな人も何らかの形でトラウマを抱えている。両親が離婚した、学校でいじめに遭った、家が裕福ではなかった、家族に重病の構成員がいた、等々。クリシェ(陳腐な表現)になるが、個人の痛みを量り、比較することは不可能である。
ではこの本がもたらす差異は何なのか?言い換えれば、この本が出版される価値があったのはなぜか?
1点目は、その被害のスティグマ(烙印)の強度にある。性犯罪被害者は社会において高い強度のスティグマを負う。そしてこれは通文化的であろう。たとえば同性愛者であることも社会のスティグマの強度は高いが、文化によっては同性婚が認められていたりと許容度が高く、したがってスティグマの強度が比較して低い場所もある。一方、性犯罪被害者のスティグマはおそらく普遍的に、つまり通文化(共時)的かつ通歴史(通時)的に一定してその強度が高いと考えられる。そんな中で被害を公的に明らかにしたことに価値がある。
2点目は個人のレベルにおいて。スティグマの強度が高いゆえに性犯罪者は無言化mutedさせられ、したがってこれまで性犯罪の被害者がどれほどのトラウマを負うのかということを共感、さらには理解することは困難であった。しかし本書を読めば、私たちは共感へ、理解へ一歩、歩みを進めることができる。以下のような文章を読めば、そのトラウマの程度が垣間見れる:
加害者に対しては、いまも恐怖が先に立つ。顔や体臭を思い出そうとすると、相手を特定しようとすると、「カン!」と頭の中にショックが走り、拒否にも似た、考えられない状態になる。
加害者はいま頃何を考え、どう過ごしているのだろう。私を襲ったことなど忘れてしまっただろうか・・・・・・。
「連れ込んだ女が生理でさぁ」と友達に笑いながら話しているだろうか。そう考えると、悔しくてたまらない。
『お願いだから、反省していて』と思う。(pp. 186-187)
このように2つのレベルで本書は価値を有する。
また個人のトラウマは周りの人間との軋轢を生み出してしまう。本書を通じて小林は、事件後の彼との軋轢、両親との軋轢も細かく描写している。その彼とは結局、結婚し、しかしトラウマ、そして他の要素も絡まって離婚に至る。一方、両者歩み寄りをみせず、関係が拗れてしまっていた両親、特に母親とは最後に和解の様相をみせる:
母さんはね、事件のことを思い出したくないの。あんたは私たちのことを恨んでいるかもしれないけれど、母さんはね、もしもあんたが自殺なんかしちゃったら、お父さんたちには悪いけど、一緒に死のうって決めてたのよ。だって、わかってあげられないんだもの・・・・・・(p. 203)
小林はこの本を持って性犯罪被害者としてカミングアウトした。カミングアウトと言う用語は英語のcoming out of the closetに由来する。この言葉は系譜学的に性的少数者が使い始めた用語で、クローゼット(押入れ)の中に閉じ込められた状態から抜け出し、自分たちは性的少数者であることを公表することで差別の実態を可視化させ、社会にインパクトを与えること意味する。
小林も性犯罪被害者がクローゼットで泣き寝入りさせられている状態、唖構造muted structureから他力を借りつつも自力で抜け出し、性犯罪被害者であることをカミングアウトした。この想像するに悩みに悩んだ上での決断を讃えない訳にはいかないし、日本社会に大きくはないかも知れないけれど何らかのインパクトを与えたはずだ。こういう勇気あるミクロな行為の1つ1つが不均衡なマクロな社会を均衡化していくのである。
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