2013年7月12日金曜日

現役通訳者が書評をしたら【15】『<おんな>の思想 私たちは、あなたを忘れない』


友人がニューヨークに遊びに来るというので、頼んで買ってきてもらったのが上野千鶴子『<おんな>という思想』だった。

同書は2部構成からなる。第1部に5人の日本女性による著書(森崎和江、石牟礼道子、田中美 津、富岡多惠子、水田宗子)、第2部に6人の非日本人による著書(フーコー、サイード、セジウィック、スコット、スピヴァク、バトラー)が紹介されており、盛り沢山な内容だ。前半の日本語文献は「<おんなの本>を読みなおす」『集英社インターナショナルWEBブログ』から、後半の翻訳文献は「ジェンダー で世界を読み解く」『すばる』からの転載である。最後の「境界を攪乱する ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』フェミニ ズムとアイデンティティの攪乱」のみが書き下ろしになっている。

上野は同書を執筆するに至った動機をこう記す。「本書はわたしが読んできた本、そして力を得た本、それから私の血となり肉となった本を選び抜いて論じたものである。」(p. 296)。そして第1部の扉ではこう書く。

「彼女たちのことばは肺腑に沁みた。そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない。わ たしの魂をゆさぶることばをわたしに送ったのが、おんなの書き手ばかりであったのは、たんなる偶然だろうか。そしてそういう女性たちと同時代を生きて、彼女たちのことばをたしかに聴きとったことを、次の世代のおんなたちに伝えたい。」

しかし、「そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない」と言ったものの(<おとこ>としては寂しい限りだ)、第2部では2人の男性思想家が入っている。<おんな>の思想、にも関わらずである。これについて上野は第2部の扉でこう説明する。

「『<おんな>の思想』と銘打ちながら、そのなかにふたりの男性思想家が含まれていることを奇異に感じる読者もいるかもしれない。 だが、「おんなの思想」とは「おんな/おとこ」をつくりだす思想のこと、と言いかえてもよい。いや、もっと正確にいえば、「おんな/おとこ」をつくりだすしかけを暴き出す思想、と。それならフーコーの貢献は忘れるわけにいかないし、ポストコロニアリズムにおけるサイードを無視することはできない。」

上野の「<おんな>の思想」にこの2人の男性思想家が入るのは必然だった。

ところで上野は、同書について次のようにメタ批評している。「自分でいうのもなんですが、力の入った本になりました。」(http://wan.or.jp /ueno/?p=3183)「自分でいうのもなんだが、力のこもった書物になった、と思う」(p. 301)。しかし、 そこはやはり生身の人間、力が入っているものもあれば、そうでないものもある。というよりは読みが深いものもあれば、浅いものもある、と言った方が正確だ ろう。前者の例としては富岡多恵子、水田宗子、スコット、後者の例としてはフーコー、サイード、セジウィックが挙げられる。

特に水田の『物語と反物語の風景 文学と女性の想像力』論には力が入っている。水田の書自体に力が入っているからかも知れない。この本は、その一部が『新編 日本のフェミニズム』12巻のうち『フェ ミニズム文学批評』にも収められるに至った、明快な語り口の論理的な書籍だ。教壇に立っていた東大で上野がゼミでこれを取り上げた際、『物語』は辛口評論家の豊崎由美に「この論文を読めただけでも『フェミニズム文学批評』を読んだ価値があった。」と言わしめた、というエピソードを上野は紹介しているが、それほど水田の面目躍如たる著書である。それを上野は、若いころの水田と交した対話を文脈に挿し込みながら評論を進める。雑誌「ダ・ヴィンチ」誌上で、自身に影響 を与えた本としても上野がこの水田の本を挙げていたと記憶している。

一 方、石牟礼論についてはYes and Noだ。環境文学を生業としている者として、石牟礼についての卓抜な分析、論文は山のように読んできた。その水準から上野の石牟礼論を読むと物足りなく感じる。しかし既読の論文は、あたかも恣意的かのように石牟礼文学をジェンダーの視点で分析することを怠ってきた。上野は今回、石牟礼文学を自家薬籠中の物としたジェンダーという変数で読み解いており、この意味で評価できる。

上野はこうも書く。

「詩より小説は、そして評論は、迂遠な自己表現の方法だ。」(p. 110
「批評は迂遠な自己表現の回路である。」(p. 127
「本書は、わたしが選び抜き、今では古典となった書物を、ほかでもないこのわたしがどんなふうに読んできたか、の記録でもある。それはわたしがいかにつくられたか、ということの証言でもある」(p. 296

同書はもちろん<おんな>という、もっと正確に言えば<おんな>というカテゴリーをめぐる思想に大きな影響を与えた先哲が取り上げられているのだけれど、その読みは上野の読みであり、上野の評論、批評である。だから本書を読めば<上野千鶴子>の頭の中をちょっと覗いたような気になる。あなたが窃視症的な上野ファンなら、本書を読んでいる間、オルガスム(もちろん比喩だ)は止まないだろう。

この意味で、本書の表題は『<おんな>という思想』ではなく、『<上野千鶴子>という思想』であるべきだったのだ。

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