2013年4月14日日曜日

現役通訳者が書評をしたら【5】『リキッド・モダニティ 液状化する社会』



友人がバウマン研究をしていることもあり、『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(ジークムント・バウマン、大月書店)を読んだ。

堅牢なものの時代は抑圧的ではあったが安定していた、と述べるバウマンは、単に過去を否定して未来を理想化する人たちとは違って、よりバランスのとれた目線をもっているように思える。

キャンプ場の例が面白い。現代社会では、訪れたキャンプ場でサービスが悪くても次から行かなくなるだけで、キャンプ場管理者たちの哲学までは問わない、これが固形状のものがない常に流動的な液状化された社会である。

そういった近代論と同時に、本書はアイデンティティ論でもある。バウマンはこう言う。「アイデンティティが固定、確立してみえるのは、それに外側から一瞬眼を向けたときだけだろう。伝記的経験の内面から眺めれば、アイデンティティは脆弱で、傷つきやすく、流動性を暴露する力、形あるものすべてを押し流す破壊的逆流によって、ボロボロにされているようにみえるはずだ(p. 108)。僕も博士論文で「アイデンティティは今ここで立ち現れるもの」と定義したが、これはバウマンの定義と重なる。そして「形あるものすべてを押し流す破壊的逆流」。僕たちはこの逆流によってボロボロになってしまっていることに気づいているのだろうか。

またバウマンは「現実のアイデンティティは空想、夢想という接着剤でのりづけされ、なんとかかたちを保っている」(p. 108)とも言う。言い換えれば、人間が生きている上で欠かせないアイデンティティは空想、夢想によって成立しており、それがなくなってしまえばきっと人は精神的病を抱えるのだろう。

もう1つ面白かった言明はこれ。「プロクラスティネイトするとは、ものごとの存在成立の成立を遅らせ、延期し、後回しにすることによって操作しようとすることであり、その存在成立の緊急性を先へ延ばすことによって操ろうとすること」(p. 202)。

プロクラスティネイト(=土壇場までやらない、土壇場になって初めてやる)は単にその人の怠惰さの表れだと考えられてきたが、バウマンにかかればそれは操作する権力に等しい、となる。さすが第一級の社会学者だ。

この解釈が思い起こさせるのがデリダの「差延」の概念。差異は時間とともに揺らぐ液状状態にあり、固形の状態になない。したがって常に(決定は)延期され続け、出発点、到達点はない、というものだ。現代思想家たちは僕(たち)のような凡人より一歩も二歩も先を考えているが、だからこそ逆説的に彼/女たちの着眼点はみんな似ているように思える。

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