2015年3月13日金曜日

現役通訳者が書評をしたら【22】『ひとりの午後に』



社会学者・上野千鶴子のエッセイ集『ひとりの午後に』(2013、文藝春秋)を読んだ。「好奇心」というエッセイの結びの言葉にはこうある。「社会学を志すひとの条件は、『一に好奇心、二に尻軽さ、三、四がなくて五に知力』……わたしはいまでもそう思っている。」(p. 51


環境社会学を勉強してきたボクも、知力はさておき「好奇心」「尻軽さ」では負けていない。博士号を取得してから数年。そろそろ「社会学者」を自称していいだろうか。



このエッセイ集の大きなテーマの1つが「孤独」だ。「W坂」というエッセイでは藤あや子よろしく「わたしは孤独な子どもだった。わたしの十代も孤独だった。」とそっと読者の耳元で打ち明ける。そして斎藤学の『家族パラドクス―アディクション・家族問題 症状に隠された真実』(2007、中央法規出版)の次の文を引用する。



「みんなでわいわいやれる人っていうのは、浅いレベルでいつも自己表現ができてしまっていますから、『表現したい』ということを考えずにすんでしまいます。……『表現』には、代償として孤独を支払わなければなりません。孤独を支払わない人は、楽しそうかもしれないけど、ただの人です。孤独な魂にしか作品は作れないんですよ。」



なんてシンミリさせる文章だろう。これ対して上野はさらにシンミリさせる文章で返す(pp. 66-67)。



……たしかに作品を生み出すためには、自分のうちに経験を発酵させ、沈殿させるための「溜め」がいる。そしてそれは自分ひとりでしかできない孤独な作業だ。

 子どもを産んだことのないわたしにも、この感覚はわかる。思いの種子をふところに抱いて、じっと待つ。時間の堆積のなかから発酵して育つものがある。鬼子かもしれないが、たしかにわたしが孕んで産んだ作品だ。

 思い出が美しいのは、それが腐っていくものだからかもしれない。



これが「日本で最も恐ろしい女性」と評された人物の文なのだ。近代文学が主題としてきた〈内面〉は、その人が告白する(coming out)まで誰にもわからない。



「このところ女性ヴォーカルのCDを、しきりと聴いている。」(p. 70)で始まる「声」というエッセイでは、「音のない、しん、としたひとりの空間の孤独が、わたしの伴侶だった。」(p. 74)とひっそり呟く。



「孤独」に加えて、本書のもう1つの大きなテーマが「老い」である。このテーマは近年の上野の研究関心である介護研究に重なる。このテーマで書かれたエッセイの中でも秀作が、逆説的に聞こえるかもしれないが、「青春」だ。自身が若い頃、客員研究員を務めたシカゴ大学が新学期を迎え、キャンパスが再び賑やかになった様子をみた上野は、次のように書いてエッセイを結ぶ。
  
 ちょうど新学期で、キャンパスに戻ってきた学生たちがあわただしく往き来していた。まだ自分が何者かを知らず、世界が何であるかの無知と不安におびえて、緊張で頬を紅潮させた二十歳前後の若者たち。自分を待っている未知の将来に、徒手空拳で立ち向かわなければならない者たち。彼らには未来があり、他方、そのあいだを歩いているわたしは、自分の人生の大半がすでに過去に属していることを知っている。

 そのとき、突然、わたしは灼けるようなねたみを感じて、そんな自分に驚いた。



 青春とは、そのさなかにいる者にとっては少しもありがたくなく、ふりかえったときにだけ、胸を締めつけられるものかもしれない。(p. 147



孤独に苦しんだ青年期。その後、年をとり、少しずつ自分と折り合いがつけられるようになった上野。気怠い日曜日の昼間にページを繰りながら、そんな彼女に自分を重ねてみる。

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